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欠けていた歴史の謎の鍵、安曇磯良

大分県中津市、周防灘に面した海辺にひっそりと鎮座する闇無浜神社。

その御祭神の一柱である「瀬織津姫」は、謎に包まれた存在でした。

 

男神と女神、一対の龍神の謎を追っていた自分にとって、男神の竜王とは誰なのか。

徐福ではないか?そう考えていましたが、その答えは意外な場所にありました。

先日訪れた国東の地で見つけた本「宇佐神と安岐郷奈多宮」に、「闇無浜神社の御祭神は、安曇磯良(あづみいそら)である」と書かれていたのです。

この情報こそ、これまで欠けていた歴史のピースを繋ぐ、まさしく「鍵」でした。

 

海の神として有名な大阪の住吉神社の元社は、博多駅近くの住吉神社。

そしてその住吉神社の元々の御祭神は玄界灘の志賀海神社の安曇磯良であると、本には書かれていました。

私が追っていた謎のうち、ちょうど空白だったエリアです。

海人族「安曇」の足跡

安曇族は、玄界灘を拠点とする優れた航海民でした。

その足跡は九州北部から豊前・国東にかけて、瀬戸内から畿内へ続く広大な海上ネットワークを物語っています。

 

細男舞(くわしおのまい かつては「せいのうまい」)

かつて宇佐神宮の放生会で奉納されていた舞。

安曇磯良を神格化した舞人が登場します。

文化遺産オンラインによると「宇佐八幡宮の放生会【ほうじょうえ】が和間【わま】の浜の浮殿で執行されていた時、宇佐八幡宮の末社である古表神社、古要神社(大分県)両社からそれぞれ傀儡【くぐつ】師を船に乗せ、海上から浮殿に向かって舞を奉納した」そうです。

これは、安曇族がこの地域の祭祀に深く関わっていた証拠といえるでしょう。

書籍「宇佐神と安岐郷奈多宮」にも、古表神社・古要神社は安曇族の本拠地であったと書かかれていました。

 

山中の「海神社」

海から遠く離れた豊前や国東の山間部に「海神社」という名の神社が残されています。

これは、海人族である安曇族が川を遡り、内陸に移住した後に建てたものと考えられます。

宗像系の神社も、元々は安曇族がいた土地で、後から友好関係にあった宗像族が入り、結果的に宗像系の神社が残った場所があると、書籍「宇佐神と安岐郷奈多宮」に書かれていました。

徐福伝説と日本神話の交錯

ここからは私の妄想です。

本で書かれていた安曇磯良の存在は、私が追っていた徐福の謎や消された御祭神の謎と結びつきました。

 

安曇磯良は、日本神話の木の神・五十猛命(いそたけるのみこと)と同一視されるという説があるのです。

五十猛命は、航海に不可欠な船材の守護神でもありました。

 

そして、徐福が出雲の地で結婚した、出雲の姫との間に、五十猛が生まれたという伝承も存在します。

出雲王国の伝承です。

もしこの系譜が事実であれば、徐福伝説は単なる渡来伝承ではなく、日本神話の体系そのものに組み込まれていたことになります。

謎を繋ぐ「鹿」と「海」と「雷」

安曇族、徐福、鹿、春日大社、中臣氏...。

これまで別々に追っていたキーワードが、安曇磯良を介して一本の線で結ばれ、地域の歴史が浮かび上がるようでした。

 

日本の海の道を握った海人族とは安曇族と宗像族です。

安曇族はかつて徐福が来るときに協力したという説があり、日本の古代史上最大の内乱「磐井の乱」で、大和朝廷に敗れた磐井の息子を連れて長野県に逃げ、一族は全国に散っていったという説があります。

実際に、安曇族が移った場所には「安曇」や「鹿」の地名が残ったといいます。

安曇族の元々の本拠地は玄界灘の志賀島、志賀島神社でもあります。

 

また安曇磯良に関わる細男舞は、宇佐神宮最大の祭礼行事の一つ「放生会」で奉納された舞ですが、現在でも福岡県吉富町の神社「古表神社」(宇佐神宮の末社)で四年に一度行われています。

そして更に奈良県の春日大社で毎年12月に行われる「春日若宮おん祭」で神楽の後に「細男(せいのう)」が舞われるというのです。

若宮社は比売神様の子どもの神様が祀られており、本社格の摂社とされている重要な社のよう。

春日大社の神使も「鹿」です。

 

鹿島神宮は藤原氏が氏神とした神社であり、鹿島神宮の御祭神は武甕槌神(建御雷神)です。

そして鹿島神宮の御祭神である武甕槌神は奈良の春日大社に勧請されました。

中臣鎌足が鹿島の生まれとの説があるようですが、私は中臣氏のルーツが大分県中津市にもあるのではないかと考えていました。

もしそうであるなら、追ってきた謎である海と雷のキーワードがいよいよつながります。

おわりに

次から次に現れるキーワードを追っているうちに出会った貴重な本のおかげで、足りなかったピースが見つかったように思いましたが、歴史の専門家ではない自分にとって、妄想以上のことはできません。

しかし、その妄想が楽しみを与えてくれていることは事実です。

かつて豊のくにエリアで祀られていた一対の神がどの神だったのか。

安曇磯良が五十猛で、五十猛が出雲王国の伝承どおり、徐福が一番最初に日本にやってきた時、出雲王国の「高照姫」との間にもうけた子どもが五十猛であるなら。

豊玉姫と対になって祀られていることに納得がいくものではありました。

 

またどこかに行ったり、本に出会うことで、新たな発見があるかと思います。

 

もしもまた何か見つけられたら、こちらで報告したいと思います。

宗像大島付近の海
宗像大島付近の海