霊峰富士。
「富士山は、もしかしたら『藤山』という名を持っていたのかもしれない。」
この問いは、単なる地名の起源に留まらず、日本の古代史に横たわる、隠された謎につながるのではないかと可能性を示唆する記事を既に書きました。
それがまた新たに、ふじのみや観光協会だよりで目にした情報が、新たな視点をもたらしてくれました。
白糸の滝の畔にひっそりと佇む熊野神社に祀られる、謎多き女神「瀬織津姫(せおりつひめ)」のこと。
そして、その背後にある、熊野の神々と海を渡ってきた徐福、さらには記紀神話のスサノオの系譜との繋がり。
これらは、果たして単なる偶然の符合なのでしょうか。
「消された女神」瀬織津姫:記紀以前からの囁き
ふじのみや観光協会だよりは、私が追いかけてきた「消された女神」瀬織津姫について、示唆に富む記述をしていました。
そこには、瀬織津姫が「天照大神より古い時代、国という一つのまとまりが確立されていなかった頃に日本で崇められていた『水の神様』」であった可能性が述べられています。
さらに、天武天皇・持統天皇の時代に「時の朝廷の皇祖神としてトップの座に君臨したがため邪魔な存在となり、意図的に排斥され、古事記・日本書紀から抹消されてしまった」という推測も記されています。
そして、「日本全国の瀬織津姫を祀る神社に祭神を変えることを強制し、つい近代の明治時代まで続いていた」という指摘は、姫神の存在がいかに強大で、時の権力にとって無視できないものであったかを示唆しているように思えます。
しかし、権力の統制が及びにくかった「東国の蝦夷(エミシ)などでは密かに、いや半ば公然と、『水徳の神』『滝の神』『桜の神』『龍神』として祀られ続けてきた」という記述は、姫神への信仰が、どれほど人々の心に深く根付いていたかを物語っていると思いました。
「木」の持つ意味:水の女神と富士の繋がり
この瀬織津姫の謎を追いかける中で、「木」というキーワードが浮かび上がってきました。
ふじのみや観光協会だよりには、「木花咲耶姫(コノハナサクヤヒメ)=瀬織津姫???」という説が浮上していることにも触れられています。
木花咲耶姫は、富士山本宮浅間大社に祀られる、富士を象徴する女神であり、火を鎮めるとされる水の女神です。
彼女の名前にも「木」の文字が含まれています。
もしこの二柱の神に何らかの繋がりがあるとすれば、それは富士という「火の山」を鎮める「水」の力、そしてその火と水を調和させる「木」の存在が、神々の名に秘められていた可能性を示唆しているのかもしれません。
熊野から辿る「木」と「火」の系譜:徐福、スサノオ、そして豊の国
さらなる繋がりは、白糸滝の畔にある熊野神社から、日本の熊野信仰の総本宮である和歌山県の熊野本宮大社へと伸びる糸です。
熊野本宮大社の御祭神である天火明命(あめのほあかりのみこと)は、熊野国造家の祖神とされています。そして、この「火明(ほあかり)」という名は、私がこれまで追ってきた徐福の別名と重なる可能性が指摘されています。
徐福は、秦氏系の渡来人であり、日本に様々な技術や文化をもたらしたとされます。
彼らが「木の国」である紀伊国に深く関わり(徐福の孫・高倉下が紀伊国を「木之國」にしたという伝承)、林業技術を伝えた可能性も考えられます。
また、熊野本宮大社のもう一柱の御祭神である家津御子大神(ケツミコノオオカミ)は、スサノオとされているようです。
もし天火明命(徐福)とスサノオが、同じ熊野の地で祀られているのであれば、記紀神話の荒ぶる神であるスサノオの背後に、渡来系の技術者集団、特に「火」を扱う(冶金技術など)火明(ホアカリ)の系譜があった可能性も推測できます。
豊の国と熊野は、地理的にも信仰的にも繋がりがあるようです。
豊前の八屋祇園で「紀」氏の凱旋が模されていることや、紀伊国との「木」の繋がり。
これらはすべて、渡来系の文化と、日本の土着信仰、そしてその中核を担った「木」と「水」「火」の神々が、複雑に絡み合いながら古代史を織りなしてきた一つの可能性を示唆しているのかもしれません。
国東半島に残る熊野信仰

鬼が仏になった里「国東半島」。
八幡大神の化身と伝わる仁聞菩薩が国東半島に開いた寺院群「六郷満山」。
その峰入りの始まりは、この画像の「熊野磨崖仏」からです。
「なぜ和歌山の熊野が国東半島の六郷満山と関係が?」と思っていたのですが、謎を追い続けて、ようやく理解できたように思います。
水と火をつなぐ「木」の存在を知れば。
おわりに
瀬織津姫の存在が隠されてきた背景、木花咲耶姫の名前にある「木」が持つ意味、そして熊野の神々と徐福・スサノオの繋がり。
これらは、単なる偶然では片付けられない、多くの符合を含んでいるように思えます。
火と水を繋ぐ「木」の存在は、まるで古代の人々が、自然界の力と、それを司る神々の関係性を、精緻なシンボルとして神名や伝承に込めてきたかのようです。
そして、それらの真実が、時の権力によって意図的に隠されてきた、あるいは解釈されてきた歴史の一側面があるのかもしれません。