「こんぴらさん」として親しまれ、海の神様として多くの船乗りたちに信仰されてきた金毘羅様。
しかし、こちらの記事で豊後高田市の文化財室の方から伺った話、そしてその後の調査で、私たちは意外な事実に直面しました。金毘羅様は、実は「風と雲の神様」としての側面を強く持っていたというのです。
今回は、この「風と雲を司る神」としての金毘羅信仰のルーツをさらに深く掘り下げ、古代の信仰との繋がりを探っていきたいと思います。
「風と雲の神」としての金毘羅様:四国新聞の示唆
「金毘羅様は風の神様である」という文化財室の方の言葉をきっかけに調べを進める中で、特に興味深い情報が載っていたのが、四国新聞のサイトでした。
そこには、金毘羅様が風だけでなく「雲」の神様でもあると明確に記されています。
塩飽や備中の海を航行する船からの目印として、高燈籠が建てられている。暗夜の嵐のなかでただ一点の燈は、迷走する船にとっては天の救けであった。また、その奥を見透かせば、うっすらと象頭山の威容が浮かんでいる。こんぴらさんは自然の猛威を司る風の神、雲の神である。祈りに応え、難破寸前の船に向かって、金の御幣が雲に乗って、飛んできて救けてくれる、劇的場面も数多く絵馬には描き残されている。
(四国新聞「金比羅宮美の世界」- 「神聖な海域『塩飽の海』(作家・フランス文学者 栗田勇)」から引用)
この記述は、金毘羅様が単なる海の守護神ではなく、海上における天候、特に風や雲といった自然現象を司る神であったことを示しています。
嵐の夜、船乗りたちが頼りとしたのは、遠くに見える高燈籠、そしてその背後にそびえる象頭山(ぞうずざん)の存在だったのでしょう。
絵馬に残された「金の御幣が雲に乗って飛んでくる」という劇的な場面は、まさに風と雲を操り、人々を救う神としての金毘羅様の姿を象徴しています。
象頭山と「雲気神社」の繋がり
金刀比羅宮が鎮座する象頭山についても、同じ四国新聞の記事には重要な示唆があります。
象頭山は海抜六百十七メートルの大麻山(おおあさやま)の峰続きだが、原始の象頭山への信仰については記録もなく、推理するほかはないが、それでも神体山として『延喜式(えんぎしき)』神名帳にある雲気(くもげ)神社が、金刀比羅宮の原始社頭ではないかともいわれる。大麻山を日和山(ひよりやま)とみると、山にかかる雲形は天候予知の重要な手掛かりで、象頭山の一角の、雲気神社が古くから式内社とされたのもうなずける。
(四国新聞「金比羅宮美の世界」- 「神格化したクンピーラ(作家・フランス文学者 栗田勇)」から引用)
ここに登場する「雲気神社」という名前は、まさに「雲の気配」、つまり天候の変化を司る神社であったことを示しています。
象頭山が天候を予測する「日和山(ひよりやま)」として機能していたとすれば、その山にかかる雲の形から天候を予知し、海の安全を確保しようとした古代の人々の知恵が見えてきます。
「雲気神社」が金刀比羅宮の原始の社(やしろ)であったとする説は、金毘羅様が海の神様というイメージよりも、むしろ風や雲といった「気象」を司る神として、古くからこの地で信仰されてきた可能性を強く裏付けていると言えるでしょう。
なぜ「海の神様」のイメージが定着したのか?
では、なぜ現代において金毘羅様が「海の神様」として広く認識されるようになったのでしょうか。
その背景には、中世以降の交通手段の発達と人々の信仰の変化があると考えられます。
江戸時代には、海上交通が活発になり、特に大阪と瀬戸内海を結ぶ航路が発展しました。
象頭山に位置する金刀比羅宮は、海上からの視認性が高く、航海の安全を祈願する船乗りたちにとって格好の信仰対象となりました。
また、神仏習合が進む中で、金毘羅様は仏教の蛇神(じゃしん)であるクンピーラ(クンビーラ)と結びつき、さらに水の神、龍神としての性格も帯びるようになりました。
こうした経緯を経て、「海の神様」としてのイメージがより強調されていったのかもしれません。
しかし、その根底には、嵐や風雨といった自然の猛威から人々を守る「風と雲の神」としての原初の信仰があった、と考えるのが自然でしょう。
古代信仰と現代に残る痕跡
豊後高田市の文化財室の方との会話、そして四国新聞の資料から見えてきた金毘羅様の真の姿は、日本の古代信仰の奥深さを改めて教えてくれます。
私たちが見てきた馬城山伝乗寺跡地の金毘羅宮も、まさに「山に祀られた風の神様」としての金毘羅信仰の痕跡であり、その背後にそびえる「喜久山(菊山)」の存在も、単なる偶然とは言い切れません。
古代の人々は、自然を深く敬い、その恵みと脅威の中に神を見出しました。
金毘羅様もまた、そのような古代の信仰の中で、風や雲、そして天候を司る重要な神として崇められていたのではないでしょうか。