まだ真夏のように暑かった9月に豊後高田市最大の古墳(前夫後円墳)、真玉大塚古墳(致祭神社)に行ったので、今回は同じく豊後高田市内の前方後円墳「入津原丸山古墳」へ行くことにした。
古墳の近くには今まで立ち寄ったことがあるセブンイレブンがあり、多少の土地勘はあったものの、古墳の入口となると話は別だった。
Googleアースで見ても道が細いのか情報は出ていないし、豊後高田市の古墳のパンフレットにも詳しい行き方は真玉大塚古墳の時と同様載っていなかった…。
もはや現地に行くしかないと行ってみたところ、やはりよく分からず、住宅街にいた土地の人に古墳の場所を尋ねてみた。
「古墳?この辺にはたくさんありますからね。なんて古墳ですか?ああ、それならすぐ近くですよ」と入口まで案内していただけることになった。
住宅街の奥へ進んでいくと、看板の字が薄く「入津原」ぐらいしか読めなかったけど、右側に公民館なのか集会所なのか建物が現れる。
その建物の右奥に古墳の看板があり、更にその向こう側へと進めば古墳まであと少し。
本当にここを通ってよいのかと思うような民家と民家の間の道で、案内してもらえて大変心強かった。
住宅があるエリアを抜けると田んぼの畦道が出てくる。
「ほら、あれが古墳です。『にゅうづばる』って読むんですよ。畦道を右に行って、左に曲がると古墳の名前の標識があります。そこから先に行くと古墳の上に行けます」と案内してくれた地域の方に教わって、そこから一人で古墳へと向かった。
入口の樹木の茂り具合に、このまま進んでもよいのかと躊躇したが、意を決して進んでみた。
せっかく地元の方が教えてくださったのだから。
想像以上にふかふかの落ち葉の道をのぼっていくと、頂上らしき場所に行き着いた。
平らになっていたその場所には石碑と石祠。
後で看板の文章をよく読んで分かったが、石碑は入津原丸山古墳の箱式石棺が使用されているとあった。
もっとしっかり見ておけばよかった。
おそらく「南無阿弥陀仏」と刻まれた石碑と小さな石祠が向かい合うように立っていた。
もう少しゆっくりしたかったけど、虫よけスプレーをしていなかったので早々に退散した。
古墳からは特徴ある形の山がよく見えた。なんという山だったのだろう。
入津原丸山古墳の関連情報
入津原丸山古墳(にゅうづばるまるやまこふん) (大分県指定史跡)
指定年月日 昭和四九年三月二三日
豊後高田市の海岸線には、約4kmにわたり5世紀から6世紀にかけての首長墓を中心とした古墳群があります。
5世紀以降に見られる古墳には、「円墳に造り出し(祭壇)が付くもの」や「前方後円墳の前方部が短小化したもの」があり、真上から見ると帆立貝のように見えることから、帆立貝式古墳とも言われます。
入津原丸山古墳はこれにあたり、墳長は70m(赤線)を超え、高さは10mと高く、円墳の中でも傑出しており、5世紀前半の首長墓と推測されます。
また、墳丘に沿って水田が作られ、濠(青線)存在が想定されます。
副葬品としましては、仿製銅鏡・勾玉・鹿角製刀装具・短甲などがあります。(現在は東京国立博物館蔵)
このほか、墳丘中央部にある記念碑は、入津原丸山古墳の箱式石棺が使用されています。
豊後高田市教育委員会
看板から引用
入津原丸山古墳は、円丘部の径は約70m、高さ約10m、神や祖先を祀るための施設とされる「造出(つくりだし)」(長さ約7m、幅約23m)を伴った長径約77mの帆立貝形古墳です。1901年に発掘調査が行われた際に鏡、革綴短甲、玉類、滑石製品などの副葬品が発見されています。
入津原丸山古墳の場所
〒879-0607 大分県豊後高田市新栄