豊前に移住した当初、何気なく訪れた山国川のほとりの牛頭天王公園(上毛町)。この公園内の八坂神社で、私は初めて「瀬織津姫(せおりつひめ)」という神の名を意識しました。
それから地域の史跡を巡る旅を続け、再びこの八坂神社を訪れると、多くのヒントが隠されていたことに気づきました。「知らないものは見えない」という言葉を実感するとともに、この地が持つ古代からの重要性を考察します。
弥生時代の遺跡と八坂神社の配置

八坂神社(旧牛頭天王)は、弥生時代の遺跡が残る小高い丘に鎮座し、眼下には山国川、そして八面山や宇佐の特徴的な山々を見渡すことができます。
古代の人々にとって、この場所が祭祀や地域支配の観点から非常に重要であったことが示唆されます。
拝む方角と鬼門


再訪時に特に注目したのは、八坂神社の拝殿の向きです。道路沿いの鳥居から進んだ方向と、社殿の向きに違いが見られました。
社殿の奥には、小さな社と石祠、そして「大神宮遥拝所」と刻まれた石が置かれたエリアがあります。


小さな社の木の札には、「瀬織津比売神」「速秋津比売神」「氣吹戸主神」「速佐須良比売神」という四柱が記されていました。これらは「祓戸の神」と言われ、神道において穢れを祓い清める重要な役割を担います。
この社殿や遥拝所が向く方向はほぼ北東です。
古代の信仰では、北東は艮(うしとら)、すなわち鬼門の方角であり、災いを防ぐために祭祀の場所が重要視されることがあります。
北東の闇無浜神社と中津大神宮
八坂神社(旧牛頭天王)から北東の方角には、重要な神社が位置しています。
1.闇無浜神社(やみなしばまじんじゃ): 中津市竜王町に鎮座し、御祭神に瀬織津姫神を祀っています。
2.中津大神宮: 中津城の公園地内にあり、伊勢神宮の御分霊を奉斎する「豊前の国のお伊勢様」です。
八坂神社の境内に祓戸四神を祀る社と、皇大神宮(伊勢神宮内宮)遥拝所跡地があるという事実、そしてその方角が瀬織津姫を祀る闇無浜神社と一致することは、単なる偶然ではない可能性を示唆しています。
これは、古代の勢力が鬼門封じや特定信仰の監視・統合のために、意識的にこの場所に施設を配置したという仮説を補強する手がかりとなります。
また、社殿の近くには、高淤迦美神・闇淤迦美神(水の龍神)などを祀る貴船宮もあったことがわかっており、水神信仰の重要性がここでも確認できます。
牛頭天王信仰と疫病・地震鎮静
この八坂神社は、かつて「瀧ノ宮牛頭天王」と呼ばれていました。
地域の伝承によれば、この祭祀は養老年間(717年~724年)に、疫病が流行した際に播磨の廣峯神社から疫病鎮守の神として勧請されたのが始まりとされます。当初は「瀧」の字がつく垂水廃寺の境内に祀られていました。
牛頭天王と祇園祭の起源説
牛頭天王は疫病を鎮める神として広く信仰されましたが、近年の歴史学では、京都の祇園祭の起源について新たな説が提唱されています。
東京大学史料編纂所の保立道久名誉教授らは、祇園祭の始まりとされる貞観11年(869年)に貞観地震(M9クラス)が発生したことから、祭りが疫病鎮静だけでなく、大地震の頻発という「大地動乱」を鎮める目的も深く関わっていたという説を提唱しています。
この上毛町の旧牛頭天王社も、疫病だけでなく、自然災害という「穢れ」を祓い鎮めるための重要な祭祀場であったと考察できます。
瀬織津姫(穢れを水で祓う女神)と牛頭天王(疫病や災厄を鎮める男神)が、この地で共に祀られてきたことは、「災厄の鎮静」という共通の役割において、両者が重要な対をなしていた可能性を示唆しています。
追い求めてきた古代の謎へのヒントは、実は旅のスタート地点にすでに隠されていたのかもしれません。
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