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【発見】金毘羅様は海の神様ではなかった? 文化財担当者から聞いた「風と雲の神」としての真の姿

豊前市に移住して以来、この地域の歴史や文化の奥深さに触れる日々を送っています。

最近では、制作中の小冊子(ZINE)の掲載内容を確認するため、豊後高田市の文化財室の方とお話しする貴重な機会に恵まれました。

 

文化財室の担当者の方といえば、役所の仕事の中でも専門職。

なかなかお話しする機会がない方々です。

せっかくのチャンスなので、以前から抱いていた素朴な疑問をぶつけてみたところ、思わぬ回答が返ってきました。

それが、今回のタイトルの「金毘羅(こんぴら)様は海の神様ではなく風の神様だった」という驚きの事実です。

山の金毘羅宮と「海の神様」のイメージのズレ

そもそも、なぜ私がそんな質問をしたかというと、以前、このブログで公開した「山の中に残る『海』の痕跡――国東半島と宇佐の不思議」という記事で触れた、ある疑問がきっかけでした。

 

 国東半島に開かれた神仏習合の山岳宗教「六郷満山」の本山本寺8か寺の中でも最大規模を誇ったとされる「馬城山伝乗寺(まきざんでんじょうじ)」。その跡地(現在の真木大堂)の背後には馬城山がそびえ、約20分ほどで山頂の展望台まで登れます。

 

豊後高田市 馬城山頂上から見える山 喜久山 かつては 「菊山」

 

山頂近くに辿り着くと、ひっそりと佇む金毘羅宮(こんぴらぐう)の石祠が目に入ります。

その石祠が向かう方角には、現代の私たちが見ても「これはすごい」と驚くほどの存在感を放つ大きな山が見えるんです。

 

これほど存在感があるのに、Googleマップには名前が載っていません(2025年6月時点)。
「こんなに立派な山に名前がないはずがない!」そう思ってずっと気になっていたので、文化財室のMさんに尋ねてみたんです。

 

するとMさんから返ってきたのは、「おそらく馬城山伝乗寺の本体はあの山です。喜久山(きくやま)です。昔は花の『菊山』だったそうです」という、またもや驚きの回答でした。

「風の神様」としての金毘羅様

「菊ということは、海とは関係ないんですね。でも、山頂付近の金毘羅社って、海の神様ですよね?」と重ねて尋ねると、Mさんはこう答えてくれました。

 

いえいえ、実は金毘羅様は、海の神様ではないんです。風の神様で

 

豊後高田市文化財室のMさんによると、金毘羅様は風の神様であり、海上の風はもちろん、山に吹きすさぶ風からも人々を守護してくれる存在として、海だけでなく山にも祀られているのだそうです。

 

「多分、海の神様と思っている方が多いと思いますよ」とMさんが言っていた通り、私のように金毘羅様を海の神様だと思い込んでいた方は、きっと多いのではないでしょうか。

新たな情報・疑問

金毘羅様が「風の神様」であると知り、さらにそのキーワードで調べていくと、四国新聞のサイトに非常に興味深い記事を見つけました。

金毘羅様は、風だけでなく「雲」の神様でもあるというのです。

塩飽や備中の海を航行する船からの目印として、高燈籠が建てられている。暗夜の嵐のなかでただ一点の燈は、迷走する船にとっては天の救けであった。また、その奥を見透かせば、うっすらと象頭山の威容が浮かんでいる。こんぴらさんは自然の猛威を司る風の神、雲の神である。祈りに応え、難破寸前の船に向かって、金の御幣が雲に乗って、飛んできて救けてくれる、劇的場面も数多く絵馬には描き残されている。

 

四国新聞「金比羅宮美の世界」- 「神聖な海域『塩飽の海』(作家・フランス文学者 栗田勇)」から引用

また、同じ記事には、金刀比羅宮が鎮座する象頭山(ぞうずざん)について、以下のような記述も。

象頭山は海抜六百十七メートルの大麻山の峰続きだが、原始の象頭山への信仰については記録もなく、推理するほかはないが、それでも神体山として『延喜式』神名帳にある雲気(くもげ)神社が、金刀比羅宮の原始社頭ではないかともいわれる。大麻山を日和山(ひよりやま)とみると、山にかかる雲形は天候予知の重要な手掛かりで、象頭山の一角の、雲気神社が古くから式内社とされたのもうなずける。

 

四国新聞「金比羅宮美の世界」- 「神格化したクンピーラ(作家・フランス文学者 栗田勇)」から引用

〝こんぴらさん〟の名で親しまれている金刀比羅宮(ことひらぐう)の御本宮は、琴平山(別名「象頭山」)の中腹に鎮まります。

小西可春編「玉藻集(たまもしゅう)」七巻本〔延宝5年(1677)〕の「讃陽名所物産記 第二」には「此山に鎮座三千歳に及と云々。」とあります。「金毘羅山名所圖會」〔文化年間(1804-1818)〕には「金毘羅大権現當山に御鎮座事は、遠く神代よりの事にして、幾百萬年といふ事をしらす。」とあります。

初め大物主神を祀(まつ)り、往古は〝琴平神社〟と称しました。

中古、本地垂迹説(ほんちすいじゃくせつ)の影響を受け、「金毘羅大権現(こんぴらだいごんげん)」と改称し、永万元年(1165)に相殿に崇徳天皇を合祀しました。

 

金刀比羅宮 | 由緒から引用

「雲気神社」という名前もまた、金毘羅様が風や雲、そして天候を司る神であったことを強く示唆しています。

海上の安全を守るためには、海そのものよりも、その上空を支配する風や雲の動きを読み解くことが何よりも重要だったのでしょう。

だからこそ、高台や山頂に金毘羅宮が祀られ、船乗りたちの道標となっていたのかもしれません。

「菊山」と金毘羅様、そして新たな謎

Mさんから教えていただいた「喜久山(菊山)」。

六郷満山の中心であった馬城山伝乗寺の本体とされるこの山が「菊」の名前を持つこと。

 

そして、同じ豊後高田市内の雷鬼(いかずちおに)の岩屋古墳近くにあった海神社でも「菊」の跡が見られました。

 

「菊」と「風」、「金毘羅様」に何か関連があるのでしょうか?

 

今回の文化財室の方との対話は、私の金毘羅様に対する固定観念を打ち破り、その神格の奥深さ、そしてそれがこの豊前の地にどのように根付いてきたのかを考える貴重なきっかけとなりました。