大分県中津市の城「中津城」に行って、城井神社の手前にある北斗七星の敷石を見つけました。
「どうしてここに北斗七星の敷石があるのか?」と不思議に思っていたのですが、看板もなく、中津市在住の知人に尋ねても分かりませんでした。

なので、中津城の社務所の方に、他のお尋ねごとのついでに伺ってみました。
メモをしなかったことが悔やまれますが、あの敷石は大神宮の祈祷する方向に向けて、神社の方が置かれたそうです。
たしかに拝殿・本殿と続いた更に奥側に向いているようです。
北斗七星と星の位置でいえば、ちょうど北極星にあたる位置ですね。
北極星は、北の方角を知る目印になる星です。
星は、時間の経過とともに東から西へと動いていくようにみえますが、北極星は地球の地軸(ちじく)を延長した方向にあるので、
ほとんど動かずいつも真北にみえます。
北極星は北斗七星からみつけることができます。
ひしゃくの形をした北斗七星の二つの星の間隔を5倍のばしてぶつかった星が北極星です。
常陽小学生新聞から引用
大神宮の御祭神といえば
天照大御神(あまてらすおおみかみ)
伊勢神宮内宮の祭神。伊勢神宮内宮の神様で、皇室の御祖神、日本人の総氏神様
豊受大御神(とようけのおおみかみ)
伊勢神宮外宮の祭神。伊勢神宮外宮の神様で、農業・諸産業・衣食住の守護神
倭姫命(やまとひめのみこと)
天照大御神の御杖代(みつえしろ)
天宇豆売命(あめのうずめのみこと)
芸能・芸術の神。芸能、芸術の神様
中津大神宮ホームページから引用
天照大神は「太陽の神様」で「空」ではありません…よね?
豊受大御神も違いますし、倭姫命、天宇豆売命も「空」の神様ではなさそうです。
御祭神ではなく、「空の神様」で検索をかけると、日本で空の神様といえば饒速日命(にぎはやひのみこと)です。
飛行神社[ひこうじんじゃ]
饒速日命(にぎはやひのみこと)は古代の空の神といわれ、天津神のみことのりをうけて「天爾瑞宝十種」を奉じお供の神三十二柱を従えて天磐船という飛行船に乗って、河内国河上の哮峯に天降られた。そこから再び天磐船に乗り大空を翔行き大以倭国鳥見白庭山に遷り坐した神様です。
命が天降られた哮峯には、磐船神社(大阪府交野市私市)があり、ご神体は天磐船といわれる大石でその形が大船に似ているところから信仰の対象となっています。
当社には大正4(1915)年に二宮忠八翁が飛行神社創建に当たって磐船神社(大阪府交野市)よりご分霊いただきました
飛行神社ホームページから引用


ここで北斗七星に戻ります。
中津大神宮の社殿の奥に向き、北斗七星から見て北極星の位置をGoogleMapで確認してみます。
北斗七星が見えます。(見えない方は拡大してご覧ください)
「ひしゃくの形をした北斗七星の二つの星の間隔を5倍のばしてぶつかった星」が北極星の位置です。
北天にあって動かない北極星、
そのまわりを回る北斗七星は宇宙を支配する神と
その乗り物として古来より信仰の対象となってきた。
その信仰はわが国の仏教や神道にも取り入れられ、
星を祀り、護国鎮守、除災招福の祈願がおこなわれてきた
歳前神社ホームページから引用
空海と真言宗、そして妙見信仰は密接な関係にありました。
空海は真言宗の開祖であり、その教えの中で、妙見菩薩を重要視していたそうです。
妙見菩薩は、北斗七星を神格化したもので、空海はこれを宇宙の中心に位置する存在として尊び、その力を借りて、悟りの境地を目指したと。
近年人気の映画、新海誠監督の『君の名は』では空から隕石が降ってきます。
そのモデルとなったのが大阪の星田妙見宮といわれており、弘法大師空海が交野ケ原の地(現・星田)を訪れて、仏眼仏母尊ぶつげんぶつもそんの秘法(特別な修行)を修している時に天から降ってきた七曜の星(北斗七星)だと伝わってもいるそうです。

そういえば北斗七星の先の城井神社。
中津城で黒田側に謀殺された、築上町の名将「宇都宮鎮房」が祀られていますが、宇都宮鎮房が信仰していたのも妙見宮、築上町の「葛城神社 妙見宮」だったという情報があります。
北斗七星の近くに城井神社があるのも、何か理由があるのでしょうか。
また、北斗七星の敷石の近くには金毘羅様もあります。
金毘羅様といえば、海の神様ではなく風と雲の神様でした。
風と雲は、「空」にあります。
そして金毘羅宮の御祭神は「大物主」なのですが、大物主は饒速日命という説があります。
記紀神話において神武天皇と敵対したニギハヤヒ(饒速日命)ですが、このニギヒヤヒとオオモノヌシが同一の神ともされる点は興味深いです。
ニギハヤヒは、様々な文献の中で高貴な地位を持った神であるとされていますが、その存在の真意は謎に包まれていて、出雲の王朝の出とされたり、現在の天皇家とは違う近畿地方の王族であっともされます。
一説にはオオクニヌシの子として、出雲から大和(奈良)に出征をしたともされ、この点を重要視し、大和の地に大きな影響力を持っていたオオモノヌシとニギハヤヒは同一ではないか?と推論をした学者もいました。
光雲神社ホームページから引用

うきは市の「日岡古墳」に残っていた神社の扁額にも「金毘羅宮」と刻まれていたように、金毘羅宮の歴史は大変古そうです。
一方、中津大神宮の歴史は明治14年。
歴史に改変が加えられたという説がある明治時代です。
中津大神宮は、明治十四年、伊勢の神宮の大神様の御分霊を奉迎鎮祭し、神宮豊前教会として中津城址に御鎮座しました。
創建時は、豊前の国(企救郡・田川郡・京都郡・仲津郡・築城郡・上毛郡・下毛郡・宇佐郡)の方々に 伊勢神宮の神札(神宮大麻)と神宮暦を頒布しておりました。 その後、神宮教、神宮奉斎会と改称の後、 昭和二十一年、『中津大神宮』と改称され、今日に至っております。 『豊前の国のお伊勢様』と親しまれ、地域の方々はもとより、多くの人々の心のよりどころとして、崇敬を集めています。
中津大神宮ホームページから引用
中津大神宮の奥にある北極星とは、饒速日=大物主(金毘羅宮の御祭神)、そして星の仏様「妙見菩薩」を指しているのか。
北斗七星の敷石は、神社の方が置かれたそうですが、あえて置いた理由とは何か。
お話しできたときに掘り下げられたらよいものですが、文章を書くために調べていて気付くことが多いので難しいのです。
いずれまた、きちんとした形でお話が伺えたら。
取り急ぎ、現時点で分かったことだけをメモ代わりに残しておきます。
中津城 大神宮の場所
〒871-0050 大分県中津市二ノ丁1273−1