最近、やけに気になる宇都宮氏です。
マルシェイベントで訪れた、築上町寒田(さわだ)の「牧の原キャンプ場」へ行ったからかもしれません。
築上町は城井宇都宮氏の本拠地であり、キャンプ場は城の跡に建てられのだと、築上町出身者に聞きました。
キャンプ場がある寒田は、想像以上に山奥にあり、こんな場所に城があったのかと驚いたのです。

城井神社は中津城の中にあります。
目印は北斗七星の敷石。
その脇に看板もあります。


城井神社の読み方は「きいじんじゃ」。
御祭神は宇都宮鎮房で、実在の人物です。
城井神社(きいじんじゃ)
御祭神 宇都宮鎮房(うつのみやしげふさ)
城井谷城主宇都宮家は信房より鎮房に至る十八代およそ四百年の間豊前守(ぶぜんのくにのかみ)として徳政を布いた。
天正十五年(一五八七年)七月豊臣秀吉は九州平定にあたり豊前六郡を黒田孝高に、二郡を毛利勝信に与え、鎮房には四国今治(十二万石)移封の御証伴を与えたという。鎮房は累代の墳墓の地に安堵を願い、このご朱印状を返上したため、宇都宮一族は黒田孝高、長政と豊前の地で死闘を繰り返すこととなり、黒岩山合戦(峯合戦)では長政を敗退させた。そこで秀吉は孝高と謀り所領安堵を条件として長政と鎮房の息女千代姫(鶴姫)との婚を約し和睦した。
天正十六年(一五八八年)四月二十日鎮房は中津城に招かれ酒宴の席で謀殺された。
宝永二年(一七〇五年)小笠原長円は小社を建て城井大権現として崇め、その後幾度かの変遷の後城井神社として改められた。
中津市
黒田官兵衛最大の敵とも呼ばれた「宇都宮鎮房」。
豊臣秀吉と黒田に謀殺された、徳政を布いた戦国時代の武将。

城井神社と同じエリア、城井神社の手前右手には


宇都宮鎮房の家臣四十五名が祀られる扇城神社があります。
扇城神社(せんじょうじんじゃ)
宇都宮鎮房公従臣四十五柱
天正十六年(一五八八年)宇都宮鎮房公従臣は、庶子空誉上人(鎮房公と静との間に生まれた)の合元寺(ごうげんじ)に止め置かれ、鎮房公は小姓松田小吉を伴い中津城内の館で謀殺された。
異変を知った家臣群は次々に城中に駈け入り、龍が荒れるように戦った。小姓松田小吉は十九人に手傷を負わせ京町筋で討死、野田新助・吉岡八太夫は手傷を負い広津広運寺まで切り抜け追腹、その他二士は合元寺門前に遁れ戦い遂に庫裏にて討死、その他はことごとく討死した。
家老渡辺右京連は七・八人を薙ぎ伏せたという。松田小吉は小吉稲荷として京町に、野田新助・吉岡八太夫は広運寺にそれぞれ埋葬され、その他の従臣の遺体は寄せられ城内乾の上段、この地に埋葬された。宝永二年(一七〇五年)小笠原長円(ながのぶ)公は広運寺追腹の二士を小吉稲荷大明神とともに祀った。その後変遷。城井神社再興後、大正九年(一九二〇年)四月二十日、鎮房公従臣四十五柱を境内末社として祀ったのである。
中津市
中津の郷土史を語る会
宇都宮鎮房との戦いに勝てずにいた黒田孝高は、鎮房の娘を長政の養子の嫁にもらうことにしました。
鎮房は、黒田長政との関係改善を図るため、娘を長政の養子に嫁がせる約束をしました。それをきっかけに、和解の証として中津城へと招かれます。
そこで開かれたのが「和睦の宴」と呼ばれる酒宴でした。
しかし、それは罠でした。宴が盛り上がる中、鎮房は突然襲撃され、命を奪われてしまいます。
信じて向かった先での裏切りでした。
このとき、彼の父や息子、そして無抵抗の家臣たちも同様に殺され、城井谷の宇都宮一族は事実上滅びました。
姫との結婚話は政略と見せかけた策略であり、その裏にあったのは「豊前を完全に掌握したい」という黒田家の思惑でした。
この悲劇は、今も地元で語り継がれています。
「あの城は、通常なら絶対に落とせないと言われていたそうです。でも、黒田に騙されて殿様を失ったから。」
そう、築上町出身者の方が教えてくれました。
鎮房本人だけでなく、父・嫡男・家臣・13歳の娘・姫と多くの一族も次々と命を奪われた壮絶な事件によって、名門・豊前宇都宮氏は壊滅し、その悲劇は城井谷に眠る墓碑や「月光山天徳寺」に記憶され続けています。
上記の記事(別サイト)に、祟りが起こった理由が詳しく伝えられていますので、気になる方はリンクを辿ってご覧ください。大変興味深い記事でした。
右三つ巴紋と右向き卍

こちらの城井神社で気になったことが2つあります。
新しく見える石灯籠に



そして屋根には

卍があります。
が、屋根の卍は逆向き、右流れになっていました。
三つ巴紋も、卍も右向き。
また何か分かれば追記します。