「豊のくにあと」で、日本の古代史に隠された謎を日々追っています。
これまで、宇佐市の乙咩神社の旧称「乙比咩社(おとひめしゃ)」から乙姫(豊玉姫)の影を追い、中津市の闇無浜神社に祀られる瀬織津姫と龍神の繋がりを見出してきました。
点と点が結びつくごとに、ある仮説に近づいているように感じています。
既に訪れていた場所でも、後から点がつながることがあります。
それは大分県宇佐市長洲に残る高倉古墳と、そこに古くから存在し、明治期に「消された」という高倉明神(たかくらみょうじん)の存在です。
この「高倉」という言葉が持つ響き、そしてその背景にある伝承は、これまで見てきた「木」「水」「龍」「姫」といったキーワードを、さらに深く結びつけてくれました。
「高倉」という音の響き:水神・龍神との共鳴
まず、「高倉」という言葉に注目しました。
前回の記事で浮上した、徐福の孫とされる高倉下(たかくらじ)の名。
そして、記紀神話に登場する水の龍神である高龗神(たかおかみ)と闇龗神(くらおかみのかみ)。
これら「たか」「くら」という音の共通性は、単なる偶然では片付けられないでしょう。
高龗神と闇龗神は、共に山の峰や谷間に降る雨、そして水源を司る神々です。
特に高龗神は「山の頂にいる龍神」を意味するとも言われます。
「高倉」という響きが、単なる地名や氏族名に留まらず、「高所に宿る水神」や「水や龍を司る聖なる場所」といった意味合いを帯びていた可能性は十分に考えられます。
もし高倉下が「木」を象徴する渡来系と結びつくのであれば、彼らの信仰や技術が、水の管理や治水と深く関わっていたのかもしれません。
海を統べた「高倉明神」:古代海洋民の信仰の核
この「高倉」の謎を解く鍵は、宇佐市長洲の「高倉古墳」に隣接する場所にかつて存在したとされる高倉神社の由緒にありました。
現在の八坂神社の由緒書きには、次のように記されています。

高倉社由緒
古代高倉社は瀬戸内の海を統率した神を祀る高所として崇められ畏れられていた瀬戸内を航行する海人達は海上航行をこの神に祈り許されてその安全の守護として久しく信仰されていたが中世となり神佛習合の制に従い真言密教の高倉山海龍寺と変容して内包され総称高倉明神としての信仰を得ていたが明治の神佛分離令により解体され行橋市今井の祇園社より神霊分興を受け、ここに八坂神社と改められ今日に及ぶ
東の東区平成29年5月
この記述は、高倉明神が単なる地域の神ではなかったことを明確に示しています。
- 「瀬戸内の海を統率した神」:高倉明神は、まさに海洋民にとっての絶対的な守護神だったことが分かります。
- 「瀬戸内を航行する海人達」が航海の安全を祈り、久しく信仰していたという事実は、彼らが単なる局地的な神ではなく、広範囲にわたる海の交通を支える水神、あるいは海の安全を守る龍神的な存在であったことを強く示唆しています。
これは、私たちがこれまで追い求めてきた「水」「龍」「姫」の系譜――乙姫(豊玉姫)や瀬織津姫、そして八大龍王といった神々が持つ特性と完全に一致します。
高倉明神は、この豊の国における、海洋信仰の中心を担う重要な存在だった可能性が十分あります。
渡来の「木」と土着の「水」:高倉明神のルーツを辿る
では、この海を統べた「高倉明神」と、「木」の系譜はどのように繋がるのでしょうか。
先述したように、大元出版の説では、高倉下(たかくらじ)は徐福の孫であり、紀伊国を「木之國」にしたとされています。
もしこの高倉明神が、この「高倉」系の氏族(すなわち渡来系の秦氏など)が信仰していた神であったとしたら、非常に興味深い推測が生まれます。
それは、海を渡って来た人々が、瀬戸内の海の安全を司る土着の神(高倉明神)を信仰し、それが融合していったプロセスです。
渡来人がもたらした「木」にまつわる高度な技術(林業や造船など)と、この地の「水」に関する土着信仰が結びつき、新たな信仰の形を築いていったのかもしれません。
彼らがもたらした技術や知識もまた、「木」という形で象徴され、神々と結びつけられていった可能性が考えられます。
神仏習合と明治の「解体」:龍神「高倉明神」が消された理由
高倉明神の由緒からは、さらに日本の信仰史の大きな流れが見えてきます。
中世には、神仏習合が進み、高倉神社は真言密教の「高倉山海龍寺」と一体化していました。
「海龍寺」という寺名が、まさに龍神信仰の中心であったことを物語っています。
仏教においては、龍は法を守護する存在であり、特に真言密教は龍を尊ぶ側面があるため、土着の龍神信仰と容易に習合していったのでしょう。
しかし、明治時代になり、神仏分離令が発令されると、この「高倉明神」は「解体」され、今は八坂神社へと改められてしまいました。
これは、「高倉明神」という独自の神格、あるいはその背景にあった海洋民の信仰や龍神信仰が、国家神道の体系から「消された」ことを明確に示しています。
なぜ、これほど明確な形で「高倉明神」が消されたのでしょうか?
それは、海洋民の信仰、渡来系の要素、そして龍神信仰という、特定の信仰形態が、当時の国家神道の体系にとって都合が悪かったためではないか、と推測できます。
これは、乙咩神社で「乙比咩」が「乙咩」に変えられ、その背後にある豊玉姫信仰の具体的な側面が曖昧にされたことと、同じ文脈で捉えることができるでしょう。
高倉神社・高倉古墳、高倉下の存在は、地図や歴史から消されていません。
消されたのは「高倉明神」。龍神信仰がつながることを示しているのではないでしょうか。
おわりに
宇佐市長洲の「高倉」に関する発見は、これまで個別に見てきた「水」「龍」「姫」「木」「藤」といったキーワードが複雑に絡み合い、日本の古代史の「空白」を埋める重要な手がかりであることを改めて教えてくれました。
高倉明神は、ただ消された神ではありません。
彼らが海を統べ、人々の生活を支えた存在であり、渡来系の文化と土着の信仰が融合した象徴だったのかもしれません。
歴史の教科書には載らない、もう一つの深遠な物語が、この豊の国には隠されているように思います。
さらに深堀り
「木の神」句句廼馳神とスサノオ、そして謎の渡来人徐福、空の神饒速日命がどのように繋がるのか。こちらの記事で詳しく考察しています。
句句廼馳神と同じ「くく」の名を持つ菊理媛、そして天照大神の「荒魂」とされる瀬織津姫、さらに牛頭天王といった「対なる神々」が、古代信仰の中でどのように織りなされてきたのか。その謎はこちらで深掘りします。
「貴船神社」と「瀬織津姫」そして「水の神・龍神」との関係についても、別の記事で考察を進めています。
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