国東半島でも、移住した豊前市からであれば豊後高田市は結構近く感じる。
宇佐神宮がある宇佐市の向こう側で、珍しい泉質の温泉が沢山あったり、六郷満山の古い寺院揃いと見どころ沢山。
(それに豊後高田の蕎麦も美味しい)
無動寺はホームページを見て、六郷満山の説明などとても分かりやすく説明されていたお寺だったので気になっていた。
運動不足解消と腰痛予防、心身のリフレッシュのためにゆるい低山登山を2021年から続けている。
山にはまり、トレーニングを積んでいつか穂高連峰へ…なんて気持ちは微塵もなく、あぁ気持ちよかったで登山を終わりたい。
そんな自分が「登ったことはないけど、知っている人によれば求菩堤山よりラクらしいです」と耳にして、トレッキングツアーに申し込んだのが中摩殿畑山(なかまとのはたやま)。
「色々山に登ってきたんですが、国東半島の新緑は忘れられなかったんですよね」
1年前か2年前、秋の両子寺で期間限定営業していたオープンカフェのスタッフの方に国東半島の新緑の話を聞いてから、新緑の時期には行ってみようと思っていた。
それ以来、2年連続で新緑の両子寺にカメラを携えて出かけた。
豊前市に移住する前、北九州からたまに国東半島へ旅をしていた。
あの頃はネットの情報量も今ほど無かったし、土地勘も無かったしで、長崎鼻の菜の花スポットとか分かりやすい場所に行くことが多かった。
それが移住してから国東半島への距離が近くなって、ようやく色々な場所に行けるようになってきた。
先日訪れた天念寺は二度目だ。
昨年の秋、宇佐市安心院町の下市磨崖仏へ行ってきた。
Googleフォトによると2023年10月4日。
写真を見ると思い出すけど、ちょうど彼岸花の季節だった。
院内から安心院へと続く道を走っていくと、右側に見える小さな緑の山が気になっていた。
年季の入った看板の字がやけに印象的だったそこは、下市磨崖仏と呼ばれる史跡で、遠くからでは木々しか見えない。
運転に自信がないため、中津城の駐車場に停めて歩いてこの神社まで行った。
山国川沿いをしばらく歩いて、右に曲がって住宅街に入った先に神社はあった。
御祭神が「瀬織津姫」とはっきり書かれている神社は珍しかったので、行ってみた場所だ。
元の神社の名前は「豊日別国魂神社」で、明治5年に今の「闇無浜神社」と改称しているようだった。
明治時代は廃仏毀釈が行われた時代なので、それに関連しているのだろうか。
福岡県みやこ町の奥座敷とも言ってよいのでは、伊良原へ豊前市から車を走らせ40分。
農家レストラン「隠国の食 伊良原」で、ランチを楽しむためにだったが、ダム湖の横を通り、レストランに行くまでに気になっていたのは左側に見える赤い鳥居群だった。
赤い鳥居が印象的なその場所は「鳴滝不動尊」という看板が出ていただけれど、道路から見えるのは鳥居だけ。
神籠石」とは「こうごいし」と読む。
初めてその名前を目にしたのは、実は大分県中津市の中津城。
中津城で黒田官兵衛が上毛の遺跡から持ち去った石で、石垣を築いたという。
その石が「唐原神籠石」、唐原山城という遺跡の石だった。
日本書記などの史料に記載が無いが、古代の遺跡であるということは間違いないようだ。
そんな貴重な石を、石垣にするなんて…まぁ。
2023年2月16日、豊前市に日本の地方移住研究のために滞在していたイタリア人の女性と築上町の小原不洞窟に行っていた。
Lightroomに残っていた画像データから、日付が分かった。
あれからもう1年以上経過したなんて。
「縄文時代の遺跡のあとで、求菩提山の修験者の修行の場だったと伝承が残るみたいですよ」と言ったら、文化人類学の研究者である彼女はとても関心を持った様子だった。
朽網貴船神社から「帝踏石」へ。
ネットで調べて「住宅街の中」と知ってはいたけど、想像以上に住宅街の中で驚いた。
アスファルトで舗装された戸建てが立ち並ぶ住宅街の中に、本当に突然巨石群が現れる。
4世紀前半の景行天皇が土蜘蛛討伐の際にこの岩の上で戦勝祈願されたと伝承が残るようだが…。
映画のセットで残っていると言われたほうが、信憑性があるかもしれない。