※この記事は作成途中です。
豊前に移住した2021年に、子供と遊びに立ち寄った山国川のほとりの牛頭天王公園。
その公園には弥生時代の遺跡や八坂神社がありました。
八坂神社の本殿の奥にあった小さな社で見た「瀬織津姫」の字が妙に印象になったことを今も覚えています。
「こんな名前の神様いたのかなぁ。この辺りの神様だろうか?」
それから豊前市、中津市、豊後高田市、宇佐市、それに京築方面のみやこ町や行橋市にも行くようになって、瀬織津姫とこのエリアの関係について色々調べることになります。
ネットや本のタイトルなどで「歴史から消された女神」と書かれていて気になってしまいました。
その辺りを先日このサイトのブログ「社紋が右三つ巴紋の神社まとめと考察」で一旦記事としてはまとめています。
その後、カメラ撮影のあり方について心機一転したこともあり、何となく今まで訪れた史跡を再訪しています。
上毛町の牛頭天王公園にある八坂神社にも立ち寄ってみました。
GoogleMapで設定したナビのとおり進むと、折してゆるやかな坂道をのぼる手前に、八坂神社の鳥居が目に入ったが、そのまま進むと牛頭天王公園の駐車場に着きました。
牛頭天王公園・八坂神社は小高い丘にあります。
弥生時代の遺跡もあり、丘の上から見える八面山や宇佐の特徴的な山々、それに山国川。
古代の人たちにとって重要な場所であることは、このあたりの史跡を多少巡った今でこそ多少は想像が付くようになりましたが、移住したばかりの頃は「広く見渡せて、とてもいい景色」ぐらいしにしか思っていませんでした…。
前回、初めて訪れた時と同じく牛頭天王公園の駐車場側から進んでいきます。
前回の時には疑問に思わなかったけど、今回気になった点があります。
拝む方角です。
ここにやってくる前、道路沿いから鳥居をくぐって向かった方角は東側、社殿を見ると拝む方角はざっくり北東。
向きが違います。
拝殿の向こう側は、左側から先に行くことができました。
途中、印象的な龍の彫り物がありました。
前回この神社を訪れた時、妙に立派な神社だと感じた覚えはあるので、その時にも目に入っていたのかもしれません。
龍を横目にさらに奥へ進むと、小さな社と石祠、それに「大神宮遥拝所」と刻まれた石が置かれたエリアに出ます。
社の木の札には「瀬織津比売神」「速秋津比売神」「氣吹戸主神」「速佐須良比売神」と書かれていました。
この四柱は「祓戸の神」と言われているようです。
社殿とこの社と、それに隣に新しい石碑があり、記憶が正しければ「皇大神宮遥拝所跡」と刻まれていました。
それぞれ北東に向けて。
その隣の石祠は、ネットで調べてみたら稲荷社でした。
いわゆるお稲荷さんは渡来氏族の秦氏が祀った神です。
こちらだけ西向きだったから、余計に他の三箇所の向きが気になりました。
月と石の灯籠。
帰ってから調べたら、貴船宮もあったようです。(御祭神は・高淤迦美神・闇淤迦美神・闇罔象神・八將神)
瀬織津姫がかつてこの地を治めた豊玉姫(卑弥呼)ではないかという論文でも書かれていた、関連がありそうな御祭神が並んでいました。
そして、社殿と瀬織津姫を祀る社と「大神宮」の遥拝所跡が向く先はほぼ北東、中津城近くにある闇無浜神社。
北東とは艮で鬼門の方角です。
以前、添田町の高住神社の方から「高住神社は英彦山神宮の北東、鬼門を守る神社なんです」と聞いたことがあります。
八坂神社の社殿に祓戸四神を祀る社、皇大神宮跡地から見た方角が一致すること。
それに皇大神宮とは、伊勢神宮の内宮の名称です。
八坂神社にある皇大神宮遥拝所跡地から北東の闇無浜神社は、中津市竜王町に鎮座します。
御祭神は 豊日別国魂神と瀬織津姫神。
同じく八坂神社の北東方面にはもう一つ、中津城の中津大神宮もあります。
中津大神宮はWebサイトによると「中津大神宮・中津神社は中津城趾の公園地内にある神社です。中津大神宮は、伊勢の神宮の大神様の御分霊を奉斎し、『豊前の国のお伊勢様』として親しまれている」そうです。
中津城の中には、何も説明書きがない北斗七星の石が地面にありました。
シンプルに中津大神宮=皇大神宮だからというだけでなく、八坂神社から向かった方角には何かがあると思わせる様々なヒントがここの場所にありました。
右社紋の記事と同じく、この記事もまだまだ完成とは言えませんが、自分が追っていた謎を明かすヒントは実はスタート地点にあったのかもしれないと思いました。
余談
余談ですが、八坂神社の祇園祭りは「地震を治めるために始まった」とする説があるそうです。
本三大祭りの1つにも数えられる京都・祇園祭。その歴史は約1200年前の平安時代前期にまで遡るとされています。歴史書などによりますと、平安時代の貞観11年=西暦869年、京の都で疫病が流行した際に、国の数にちなんだ66本の鉾を立てて、京都の八坂神社から現在の二条城の南側にある寺院「神泉苑」まで神輿を出して穢れを払ったのが始まりといわれています。
中略
しかし、東京大学史料編纂所の保立道久名誉教授は、祭りが始まった理由は疫病だけではないと指摘します。
「祇園祭の始まりは869年といわれていて、貞観11年になりますが、その年の5月に貞観地震というM9クラスの東北の巨大地震が起きています。この地震が祭りの始まりにどうしても関係しているはずです」
歴史学者の保立さんは、平安時代、日本全国で頻発していた大地震が祇園祭の始まりに深く関わっていたという説を説きます。
「祇園祭が始まる7年前の862年に、京都で有感地震が19回もありました。しかし、その年の末からインフルエンザが猛威を奮ったため、今までこのインフルエンザ、つまり疫病のほうに注目が集まっていたわけです」
祇園祭の始まりに「大地震」が関係!?八坂神社に移された神様『牛頭天王』 1200年前の"大地動乱"時代...歴史は繰り返すかから引用
牛頭天王(ごずてんのう)が地震の神様であるとは、この記事で初めて知りました。
疫病だけでなく富士山噴火、阿蘇山噴火、巨大地震…祇園祭が始まった貞観の時代はまさに「大地動乱」の時代だったようです。
それを鎮めるために、播磨から京都の八坂神社に牛頭天王が移されたそうですが、上毛町の八坂神社も、播磨の廣峯神社から疫病鎮守の神として、養老年中(717年~724年)にこの地域に疫病が流行した際、上毛の垂水廃寺の境内に勧請されたのが祭祀の始まりだったという情報があります。’
その後「瀧ノ宮牛頭天王」として人々に親しまれながらも、廃寺の衰退後、現在の場所に遷座したとも。
記事にはソースが書かれてなかったので、自分で調べる必要はありそうですが、瀬織津姫と関わる「瀧」の字が付いていることに、つい注目してしまいました。