三月下旬に、福岡県うきは市に一泊二日の旅をしてきました。
一日目は、うきは市浮羽町古川の素戔嗚神社に立ち寄り、二日目の午前中は、浮羽町西隈上の正八幡宮(隈上正八幡宮)へ。
正八幡宮の次に向かったのは、うきは市吉井町の若宮神社内「月岡古墳(つきのおかこふん)」「日岡古墳(ひのおかこふん)」です。
うきは市は古墳が多いエリアなのですが、そのなかでもなぜそこに行ったかといえば。
「月」と「日」が気になったからです。
「月岡古墳」と対のような場所にある「日岡古墳」。
以前、中津市の八面山信仰に関わる火渡り行事の取材に行った時、参加者の方から紅白の紙と縄をいただいた時(結界をつくるための縄)、「日の丸は白地に赤。赤は太陽、白は月を表すと言われています」と教えていただいたんですね。
それを思い出し、行ってみることにしました。
若宮古墳群の中で最初に造られた「月岡古墳」と、月と日の古墳に挟まれた若宮八幡神社へ
若宮古墳群の中で最初に造られた「月岡古墳」、そして月と日の古墳に挟まれた若宮八幡神社へ。
それぞれ別の記事にまとめました。
日岡古墳へ

若宮八幡神社の正面側から、日岡古墳方面に向かうと


小さな淡島神社を発見しました。
淡島神社の御祭神は、一般的に薬の神様とされる少彦名命と言われますが、何も記載はありませんでした。

この祠の写真はどこのものだったか覚えていませんが、写真の順番から淡島神社あたりのようです。


淡島神社がある交差点から歩くとすぐに古墳の目印が見えてきます。

日岡古墳
日岡古墳は今からおよそ一五〇〇年ほど前、若宮古墳群の中でも最後に造られた古墳です。
全長七八メートルの前方後円墳で、前方には西に後円には東に向いており、古墳のまわりには 一濠があることを確認しています。後円には横穴式石室があり、この石室の壁に絵があることを発見したのは明治二一(一八八八年のことです。奥壁全面には赤・白・緑の三色で 同心円文・わらび手文・三角文が表してあり装飾古墳の中でも優れた古墳と言えるでしょう この古墳は昭和三年に国の史跡に指定されて います。
平成十八年 うきは市教育委員会
月岡古墳は若宮古墳群の中で最初に造られた古墳でしたが、こちらの日岡古墳はその逆で、最後に造られた古墳なんですね。月が先だった。

階段をのぼって鳥居の先を見ると、椿がたくさん落ちていました。
さらに先にも鳥居が見えます。

鳥居から日岡古墳の反対方向を見ると、若宮八幡神社の鎮守の杜。
見えませんが、その先に月岡古墳があります。



日岡古墳に向き直して左手を見ると、小さな祠などが並んでいました。
そのうち気になったのは神社の扁額。

「金毘羅宮」の扁額です。
最近気になる金毘羅宮。
国東半島の馬城山にも、中津城にも、宇佐市の乙咩神社の近くにもありました。

日岡古墳は天井が崩れているらしく、鳥居の奥の建物の中から覗くかたちで石室を見ることができるようです。(事前予約必要)
この鳥居の扁額はこの写真では分かりづらいと思いますが、「伊勢宮」と刻まれていました。
こちらの方の記事を拝見すると、先程の金毘羅宮の扁額と同じように見えると…たしかに。

もう一度写真をよく見ると、あっ、雲のようなモチーフが。

憶測ですが、元々「金毘羅宮」の扁額がかけられていたものを「伊勢宮」にかけかえたのではないでしょうか。
石室手前の鳥居には天保13(1842)年ということは、江戸時代で明治時代以前です。
やはり金毘羅様は雲の神様だったのかと思いました。


石室上の建物サイドには狛犬が一組。
そして建物の奥にも小さなお社などがありました。

「塚明神」と刻まれた石碑がありました。
「塚明神」とは聞き慣れない言葉です。
記事を書いて気付いた扁額の雲、雲と日の関わりの謎
撮った写真を見直していって気付いた金毘羅宮の扁額の雲。
やはり時代によって隠された?
金毘羅様が雲の神様であることを。
消されたのが雲、金毘羅様は消されていない。
ほかに消されたのは雲と日のつながり?
追っている歴史の謎の点がつながってきたように思うのですが、それをどう表現して伝えたらよいのか、ずっと頭を悩ませています。
でも、そろそろそれを伝えていく記事を書きたいと思っています。
現時点で行ったところまで、記事化してから。
日岡古墳の場所
さらに深堀りする
金毘羅様が「海の神様」ではなく「風と雲の神様」であったという事実、そして金毘羅宮の主祭神である大物主神が饒速日命と同一神であるという説、そして妙見信仰との繋がりについては、これらの記事も併せてお読みいただくと、より深く理解していただけると思います
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