「神籠石」とは「こうごいし」と読む。
初めてその名前を目にしたのは、実は大分県中津市の中津城。
黒田官兵衛が上毛の遺跡から持ち去った石で、中津城の石垣を築いたという。
その石が「唐原神籠石」、唐原山城という遺跡の石だった。
日本書記などの史料に記載が無いが、古代の遺跡であるということは間違いないようだ。
そんな貴重な石を、石垣にするなんて…なんとまぁ。
中津城を散策して川沿いを歩いた時に偶然目に入ったその石の名前をネットで調べ、ヒットしたのが福岡県行橋市の御所ヶ谷神籠石というわけだ。
「いつか行きたい」ではきっと行くことがないと、豊前市から40分ほど車を走らせて行ってきた。


「中門」から「景行神社」を抜け、奥の院まで行ってきたけど、神社から奥の院までは登山道のようだった。
途中ロープをつかみながら息を切らしながら急登を登って奥の院にたどり着いた。


少し空間が開けていて、そこから奥の院の社殿を仰ぎ見る。
痛みが激しい。
以前、国東半島で見た成仏寺の奥の院の佇まいとよく似ていた。

神籠石は中門の近くにも巨石があり、そこでもその途中でも不動明王の石仏が祀られていた。
不動明王の石仏といえば修験道や山岳信仰が浮かぶ。
しかし、不動明王がなぜ祀られているのかや、「奥の院」が一体「何」の「奥の院」なのかについても特段の記載などは無く、御祭神についても分からなかった。
通常は「ここに寺院があった。御祭神は〜」など由来が書かれているものだが。
「なぜだろう?」
違和感のせいか、それが印象に残った。
御所ヶ谷神籠石の情報
神籠石系山城は築造の記録が残されていませんが、発掘調査の結果7世紀後半頃に築かれたと考えられています。そのころわが国は百済救援のための朝鮮半島に出兵し、唐と新羅と戦火を交えましたが663年、白村江(はくそんこう)の戦いで敗退しました。その後、唐、新羅軍の侵略に備え防人と烽(とぶひ)を配置するとともに大野城、基肄城、金田城など山城を築き国防体制を強化しました。神籠石系山城もこの戦いの前後に国士防衛のため築かれたと考えられます。
アクセス
〒824-0047 福岡県行橋市津積
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