中津城で非業の死を遂げた宇都宮鎮房(うつのみや しげふさ)。
その祖は、日本の歴史を動かした藤原氏に連なります。
そして、藤原氏の源流である中臣氏(なかとみうじ)が、実は九州の地にルーツを持っていたかもしれないという情報が見つかりました。
今回注目したのは、萩原継男氏の著書『中臣氏はどこから来たのか?』で語られる一節です。
「中臣氏は大和朝廷の前身である九州の倭人天族時代は 大君に仕える中津・弓前という名の祭祀一族でした」
(萩原継男氏『中臣氏はどこから来たのか?』より)
この「中津・弓前(ゆみまえ)」という言葉は、私が追いかけている謎に、また新たな手がかりのように思いました。
特に「弓前」の「弓」というキーワードは、地名以外に、古代の祭祀との深い繋がりを示唆しているように思えました。
「中津・弓前」:中臣氏の故郷か?
前回の記事で、私たちは豊前国の「仲津郡」に存在したとされる「中臣村」に注目しました。
中津の地と中臣氏の響きの符合は、ただの偶然と思えない繋がりを感じさせます。
さらに調べてみると、大分県中津市の市街地、中津駅近くの「中殿貴船神社」が「中臣城」の遺構として伝わっていることも分かりました。
前項でふれた萩原氏の著作が示す「中津・弓前」という祭祀一族の存在は、中臣氏が中央に進出する以前に、九州、特にこの豊前の地で、「大君(おおきみ)」に仕える重要な祭祀集団であった可能性を強く示唆しています。
彼らが「祭祀一族」であったという事実は、彼らの活動が単なる政治や武力に留まらず、神々との交信や儀礼に深く関わっていたことを物語ります。
もし、彼らのルーツがこの「中津・弓前」にあったとすれば、それは後の藤原氏の権勢の根底に、九州の古代祭祀の系譜が流れていたことを意味するのかもしれません。
宇都宮氏の「弓」と古代の祭祀
「弓前」という言葉から脳裏に浮かぶのは、中津城で最期を迎えた宇都宮鎮房です。
彼が先祖である藤原氏から受け継いだとされる「艾蓬(がいほう)の射」は、単なる武術の技ではありません。
それは、弓という道具が、かつて神聖な祭祀具として用いられていた古代の記憶を現代に伝えるもののように思えます。
古代、弓は狩猟や戦闘だけでなく、神託を得るための儀式や、災いを祓うための神事にも使われたそうです。
弓矢の音で悪霊を追い払ったり、矢を放つことで吉凶を占ったりする例は、世界各地の原始信仰に見られます。
宇都宮氏の弓術に、そのような古代の祭祀的な意味合いが込められていたとしたら、それは彼らが中臣氏の祭祀の伝統を、形を変えて受け継いでいた証拠なのかもしれません。
「月弓命」が示す「弓」と「月」の繋がり
さらに、この「弓」というキーワードは、日本の神々の世界へと私たちを導きます。
以前、宇佐の女王・豊玉姫(瀬織津姫)が月を祭祀していた可能性について触れました。
月は、古くから女性性や再生、そして神秘的な力と結びつけられてきた存在です。
そして、月を司る神といえば、ツクヨミノミコト(月読命)です。
しかし、この神は稀に「月弓命(ツクヨミ ノ ミコト)」とも表記されることがあります。
この「月弓命」という表記は、単なる音の偶然でしょうか?
それとも、月を祭祀する際に「弓」が重要な役割を果たしていたことを示唆しているのでしょうか。
もし「月弓命」が古代の祭祀において、月と弓が一体となった神であったとすれば、中臣氏(ルーツが「中津・弓前」の祭祀一族)が関わっていた月の祭祀、そして弓術が、ツクヨミノミコトという神の信仰と深く結びついていた可能性が見えてきます。
古代豊前の祭祀の系譜
萩原氏の著書が示す中臣氏の九州ルーツ説と、「弓前」という地名、そして宇都宮氏に伝わる弓術、さらには「月弓命」という神名――これらが全て繋がった時、古代の豊前の地が、日本の中央権力の祭祀を司る氏族の源流であり、「弓」と「月」を巡る独自の神聖な信仰体系を育んでいた可能性に思い至ります。
為政者によって編纂された歴史の陰に隠された、これらの断片的な情報。しかし、それらを丁寧に拾い集め、結び合わせていくことで、私たちが知る日本史とは異なる、もう一つの古代の物語が、静かに浮かび上がってくるように思えるのです。
さらに深堀り
また、これまで探してきた「瀬織津姫(豊玉姫)」に関する記事も、今回のテーマと深く関連しています。ぜひ併せてご覧ください。
藤原氏、そして右三つ巴紋が宇都宮氏と鶴姫伝説にどう繋がるのか、その背景にある「祓」の術法や古代の記憶については
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