「豊のくにあと」の探求は、日本の古代信仰の深層に迫る旅を続けています。
今回は、大分県豊後高田市にそびえる熊野磨崖仏(くまのまがいぶつ)を起点に、国東半島の熊野信仰、そして各地で「消された」痕跡が見られる「滝宮」と「牛頭天王」の繋がりを新たな視点から追ってみます。
この考察は、豊の国と「木の国」紀伊(熊野)が、単なる地理的繋がりを超え、水神信仰という共通の糸で結ばれていた可能性を示唆しています。
熊野磨崖仏:六郷満山信仰の聖地と隠された御祭神の謎
国東半島の六郷満山文化を象徴する熊野磨崖仏は、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて作られた国内最大級の磨崖仏であり、国の重要文化財に指定されています。
特に、六郷満山の伝統行事である「峰入りの荒行」の出発点となる不動明王像は、この地が信仰の中心地であることを明確に示しています。
この熊野磨崖仏がある場所、鬼が一夜にして築いたとされる石段の最上部には、熊野神社が鎮座しています。
しかし、不思議なことに、この熊野神社の御祭神は公にはほとんど情報が出てきません。
おそらく「熊野権現」であろう、ぐらいです。
なぜ、これほど重要な聖地の熊野神社の御祭神が、明確に語られないのでしょうか?
12世紀末頃、急速に紀州(和歌山県)の熊野修験が全国に広まったといいますが、この謎は、六郷満山独自の、あるいはより古い信仰形態がそこに隠されている可能性を示唆しているのかもしれません。
国東半島の熊野神社と紀伊国からの勧請:水神の系譜
この謎を解く手がかりを求めて、国東半島の他の熊野神社の御祭神を調査しました。
すると、豊後高田市中真玉にある熊野神社が、興味深い由緒を伝えていることが分かりました。
「村の鎮守のどっとこむ」の情報によれば、この神社は延暦三年(784年)に鎮座し、紀伊国牟婁郡(むろぐん)の速玉男神社の祭神を勧請(かんじょう)したとあります。
御祭神は、伊弉諾命(いざなぎのみこと)、速玉男命(はやたまのおのみこと)、事解男命(ことさかのおみこと)、保食神(うけもちのかみ)、少彦名命(すくなひこなのみこと)です。
注目すべきは、主要な御祭神の一柱である速玉男命です。
速玉男命は熊野三山(本宮・速玉・那智)の一つ、熊野速玉大社の主祭神であり、イザナギが黄泉の国から帰還した際に吐いた唾から生まれた神とされます。
これは「水」の属性を持つ神であり、その誕生譚から「穢れを祓う(禊ぎ)」や「誓いを固める(うけい)」といった役割を持つと考えられます。
また、人の縁に関わる神とされ、時に「縁切り」の側面を持つとされますが、これは菊理媛(瀬織津姫との関連が指摘される)の「縁結び」という対極のご利益と、神話的な関連性があるのかもしれません。
この紀伊国からの勧請という事実は、豊の国と「木の国」紀伊が、単に地理的な繋がりだけでなく、具体的な神々の勧請を通じて、水神信仰という共通の信仰的な交流がかなり古い時代からあったことを示しています。
「滝宮」と牛頭天王:熊野信仰の隠されたルーツか
さらに、この「木の国」と国東半島の繋がりを強める中で、私たちがこれまで探求してきた「滝宮」という地名や寺院が各地で「消されてきた」という事実に新たな光が当たります。
徳島県や香川県の資料を調査されている方の記事によれば、徳島県には「滝宮」と名のつく神社や地名が複数存在し、その御祭神が例外なく素盞嗚尊(スサノオノミコト)であると指摘されています。
そして、この方は、目立った滝がない地域でなぜ「滝宮」という地名なのか不思議に思いながらも、「滝宮」と「牛頭天王(スサノオと習合)」がセットであると結論付けています。
私たちの探求でも、「滝宮」と「牛頭天王」の繋がりが意図的に消されてきた様子を確認してきましたが、そもそもなぜ「滝宮」と「牛頭天王」がセットだったのでしょうか?
この問いに対する新たな仮説として、その繋がりが「木の国」熊野の熊野神社のルーツにあったのではないか、という可能性が浮上します。
「滝」という言葉は、単なる景観としての滝を指すだけでなく、「水が湧き出る、または流れ出る神聖な場所」という象徴性を持っていたと考えられます。
そして、「水」は生命の源であると同時に、災厄を洗い流す「浄化」の力や、「再生」の力を持つとされます。
この水の力が、スサノオ(牛頭天王)の疫病退散のご利益や、熊野が黄泉の国に通じるとされる信仰と結びつくことで、「滝宮」という信仰形態が形成されたのではないでしょうか。
水神信仰が織りなす古代のネットワーク
熊野磨崖仏の熊野神社の御祭神が不明であること、国東半島の熊野神社が紀伊国から速玉男命を勧請していること、そして速玉男命が「水」の属性を持つ神であること。
これらが、「滝宮」と「牛頭天王」の繋がり、そしてその背後にある水神信仰の系譜を解き明かす鍵となるかもしれません。
私たちはこれまで、徐福が「火明(ほあかり)」の別名を持ち、熊野本宮大社の御祭神である天火明命と重なる可能性、そしてスサノオが熊野本宮大社に祀られていることなど、豊の国と熊野の深い繋がりを追ってきました。
今回の考察は、その繋がりが、単なる技術や文化の伝播だけでなく、水神信仰という形で、国東半島と「木の国」熊野、そして「滝宮」と「牛頭天王」を結ぶ、広範な古代の信仰ネットワークが存在したことを強く示唆しているように思います。
豊の国と紀伊国は「海の道」で繋がり、その海の道で伝播した信仰が、六郷満山の「峰入り」という「山の道」とも交差し、独自の文化を形成していったのでしょうか。
熊野磨崖仏の熊野神社の御祭神がなぜ語られないのか。それは、この地に隠された、より古層の、あるいは再編された水神・龍神信仰の痕跡を物語っているのかもしれません。
さらに深堀り
「木の神」句句廼馳神とスサノオ、そして謎の渡来人徐福、空の神饒速日命がどのように繋がるのか。こちらの記事で詳しく考察しています。
「滝宮牛頭天王」が消されていた?その理由とは何か、消された神といわれる水神「瀬織津姫」との関係を詳しく。
歴史の謎の記事をまとめて読むにはこちらから。
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