お盆が過ぎて、少し秋の気配を感じたのは束の間。
厳しい残暑が続く9月となった。
それでもちょうど自由時間ができ、これを逃すまいと行った先は、国東半島、豊後高田市の応利山。
平安時代に栄えた天台宗の寺院群「六郷満山」の第三札所である報恩寺があったところ。
札所の仕組みはよく分からないが、宇佐神宮八幡大神と仁聞大菩薩の足跡を辿る巡礼の順番のようだ。
宇佐神宮六郷満山霊場とは
仁聞菩薩は、宇佐八幡神の化身(生まれ変わり)として宇佐国東の地に
今をさかのぼること約1300年前に神仏習合の原点となる山岳宗教、「六郷満山」を開かれました。
2018年に開山1300年の節目を迎える中、「宇佐神宮六郷満山霊場」は
全国八幡社総本宮である宇佐神宮八幡大神と仁聞大菩薩の足跡を辿り、
今日まで脈々と受け継がれてきた神仏習合の文化に触れ、神・仏とご縁を結ぶ巡礼であると共に、
この巡礼は行そのものであります。
巡礼の始まりは大分県宇佐市の宇佐神宮(第一札所)、その次が今は跡のみとなるが宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺(第二札所)、そして第三札所が大折山(応利山)報恩寺だ。
報恩寺は
養老二年(718年)仁聞菩薩が宇佐八幡の神託を授かり、神功皇后追福のため千手観音をお祀りしたのが開基とされております。
その後、弘仁二年伝教大師最澄宇佐宮参籠の折、当山に詣で広く円頓の妙旨を伝え、衆徒悉く帰依し天台宗となり以来顕密の教法を兼ね国家安穏・万民快楽の修法を修す。
往時は七堂伽藍を整え末寺三十六坊を有しおりましたが、天正年間、大友の兵火に焼かれた後、江戸初期寛文延宝年間に再興され昭和二十七年天台宗として復帰し今日に至っております。
天正年間にキリシタン大名の大友氏によって寺が焼かれた後、江戸初期に再興とある。
千手観音はこちらの記事によれば、聖観音を本尊としていたという鎌倉時代の情報も残っているようだ。
国東半島内の巡礼の最初となったのは、宇佐神宮に近いという地理的条件以外にも何かあったのだろうか。
そんなことを思いながら、登山口から整備された階段をひたすらのぼっていった。
傾斜はゆるやかで、求菩提山の鬼の石段を思うとやさしい。
森のよい匂いを吸い込み、休み休み進んでいけば、きつさも和らぐ。
親しみやすい風貌をした仁王像を通り越して階段をのぼれば、観音堂があったという展望台、そして更に階段を進むと左手に報恩寺が現れた。(途中の石垣が崩れていたので注意が必要)
地面の苔の緑が印象的だった。
しばらく雨は降っていなかったように思うが、とても鮮やかな色だった。
その後、また階段をのぼり、広場のような場所に出たら奥に向かい、石段をのぼって風除大権現の祠にたどりついた。
祠の右に向かって見上げると、八面山ほどの巨石ではなかったが、大きな石がたくさん並んで見えた。
北九州市の皿倉山や権現山に登った時にもそのような石を見た覚えがあった。
もしかしたらここも、神仏の祭祀が始まる前からの信仰の場だったのかもしれない。