2020年の春に初めて登山を経験し、当時住んでいた北九州市でも山登りをするようになった。
まだその頃は今のようにYAMAPなどのアプリや、SNSでも詳しい登山情報は見当たらず、なるべく安全な山をと考えて登ったのが北九州市八幡東区の皿倉山だ。
皿倉山はケーブルカーも通っていて、キツイ時には乗って帰ることもできるし、山頂にはレストランまである。
それで登り始めたのだけど、市街地に近いというのに天然の湧き水が飲めるほど自然が豊かで、神功皇后の伝承が残る木や岩など、歴史の豊かさも感じられた。
舗装道を登ってしばらく経った頃、右手に現れる石仏群もよく記憶に残っている。
「大師樅」の看板が目印になる。
お砂踏み場、立ち並ぶ大小の石仏、その奥には廃仏毀釈の影響か頭部だけの仏像、石祠が並んでいる、不思議な場所だった。
「大師樅」…だいしもみ
昭和28年、北九州大水害以前は小さな滝があり、小さな寺と不動明王の石像の下で滝にうたれ合掌念仏する善男善女の姿を見ることがあった。
この樅の木はお寺のすぐ前にあり、樹齢百年を超え、「大師樅」といわれた。
ネットで調べても看板に書かれていた「大師樅」以外の情報が出て来ず、図書館で調べて見つけたのは「平成25年八幡図書館発行の郷土資料案内の民話の頁」。
「ふるさと〝やはた″ 第2集 子どものための郷土(ふるさと)民話」に掲載された「忘れられた皿倉山祈願塔」がそれにあたるようだった。
この祈願塔は皿倉山の三合目の台地にあり、ご本尊は祈願大師(弘法大師)と言い伝えられています。
その昔の初夏の頃、この地方は未曾有の大干ばつになり、筑前や豊前の国の大小無数の河川はことごとく枯渇、田畑は枯れはて、湖沼の底は干割れてしまいました。村人たちは田植えの水を求めてぼう然として天を仰ぎ、雨が降らんことを乞い願いました。
だれ言うことなく、昔、弘法大師が神泉苑で雨乞いをして恵みの雨を降らせ、五穀の種を結ばれたという故事にならい、千把焚きをしようということになりました。
村の長老たちが、真剣に話し合い、昔、弘法大師が立ち寄られ、功徳を施された、皿倉山三合目の台地で、千把焚きの雨乞い祈願をして大師のご利益にあやかろうと、村人たちは、各地から薪を背負って続々と登山し、三七・二十一日間、薪を燃やして一心に祈り念じました。
人々の気持ちが天に通じたのでしょうか、満願の日、東の風と共に黒雲が現れました。たちまちのうちに黒雲は天を覆い、雷鳴を伴って豪雨が降り出し、その夜から甘露の慈雨となって、三日三晩降り続きました。このおかげで、豊前、筑前の山野、田畑は緑を取り戻し、村人だけではなく、生きるものすべてが大喜びして天に感謝しました。
人々は、神仏の霊力を得、天の恵みを得た弘法大師の霊験のおかげと感謝、これからも弘法大師の守護を得たいと念願して各地から浄財を募り、この地に祈願大師を勧請して「祈願塔」と名付け、筑前の国第一の霊地にして崇拝しました。
その後、戦国の時代、江戸時代と、歴史は移り変わりましたが、千把焚きの行事は行われ、その霊力はつねにあらたかだった、と言います。
出典:ふるさと"やはた"=子どものための郷土民話=第二集「忘れられた皿倉山祈願塔」
著者:沖田二二さん
「その後、戦国の時代、江戸時代…」と書かれているということは、大干ばつは室町時代以前ということだろうか。
「筑前の国第一の霊地」とありながら、この祈願塔についてネットでも書籍でも情報が少ない、というかほとんど見つけられなかった。
あえて「忘れられた皿倉山祈願塔」というタイトルが付けられたのかもしれない。
書籍の続きには、戦後荒れ果てたこの地を、豊後の国山香(今は大分県杵築市)の天住山小武寺に管理を委託されたことが書かれていた。
高野山真言宗とはいえ、なぜ北九州市から遠く離れた小武寺に委託されたのか。
小武寺にはまだ行ったことがないが、珍しい木造の倶利伽羅龍剣が保管されているらしい。
お寺の様子はこちらの記事で詳しく紹介されていているので、興味のある方は辿ってみられては。
祈願塔は、花が供えられ、コップの水も替えられてた。
今なお、お世話している方がいらっしゃるのだろう。
(この記事で使用している写真は2020年頃のものです)