昔の日本では、神さまと仏さまをいっしょに信じていた時代がありました。
その中で「六所権現(ろくしょごんげん)」という考え方が生まれます。
これは、六柱の神さまをひとまとめにして、おまつりするスタイルのこと。
お寺や神社だけでなく、山で修行する人たち(修験者)にも大切にされてきた信仰です。
たとえば、こんな神さまたちが組み合わされていました。
- 伊勢神宮の神さま(天照大神など)
- 八幡さま(誉田別命=応神天皇)
- 熊野の神さま(熊野権現=家都美御子神=スサノオなど)
- 住吉の神さま(海の神)
- 天神さま(学問の神さま)
- 大物主(風と雲の神様)
- その土地の神さま(水の神や山の神)
地域によってメンバーは変わりますが、「有名な神さまと地元の神さまがチームを組む」というイメージが近いかもしれません。



ところで、国東半島(大分県)にある天念寺と無動寺というお寺にも、この「六所権現」の名残があるのでは?といわれています。
両方とも、明治時代になって「六所権現」から、「身濯(みそそぎ)神社」に名前が変えられたようです。(※)
(※)
神様と仏様の分離が政治的に進んだためです。
六所権現だけでなく、各地で「権現」が消されたり、変えられました。
「身濯神社」の「身濯」とは、名前の通り、「身をあらう=身を清める=けがれをはらう」という意味があります。
そして水によるお清めは、昔から水の神さま――たとえば瀬織津姫(せおりつひめ)や龍神とつながると考えられてきました。
つまり、六所権現の中に「水の力」をもつ神さまがいるということ?と考えていたのですが
上記の記事で詳しくお伝えしたように、豊後高田市の学芸員の方に、天念寺の身濯神社の本殿でお祀りしているのはどんな神様なのかとお尋ねしたところ、「八大龍王です」と回答いただきました。
天念寺では「火」に関係する行事(修正鬼会)が行われていますが、その行事を行う場所が、身濯神社だそうです。
火と水、ふたつのエネルギー。
これって、陰と陽のようなバランス感覚にも通じていて、ちょっと神秘的ですよね。

そこに祀られている御祭神の神名を、ただの名前じゃなくて、「何を守ってくれるのか」「どんな力を持っているのか」を知っていくと、その土地やお寺の風景がまったく違って見えてきます。
六所権現が今にのこした“かけら”
身濯神社のように、神社の名前が変わっていたり、そもそも廃れてしまっていたりして、昔の信仰の全貌はもう見えなくなっていることもあります。
でも、建物がなくなっても、地名やお祭り、言い伝えの中に、その“かけら”は残っているんです。
たとえば、天念寺で行われる「修正鬼会(しゅじょうおにえ)」という火の祭り。
鬼を追い払うのではなく、仏の化身として迎え入れる伝統行事です。
これは、ただの奇祭ではなくて、春の訪れを告げたり、五穀豊穣の祈願として、古くから続いてきた行事です。
一方、天念寺の「身濯神社」は、火と対になるような、水の龍神である八大龍王(六所権現)を祭ります。
「火でけがれを焼き、水で身を清める」。
そんなふうに、2つのお寺がひとつの世界を形づくっていたようにも感じますね。
おわりに
現代の私たちにとって、神さまの話って、なんだか遠いものに感じるかもしれません。
でも、風の音や、山のにおい、静かな水の流れを感じたとき。
その土地に昔からある神社やお寺を訪れたとき。
ふと、「ここに何かがいたんじゃないか」「守ってくれてる気がする」と思うことってありませんか?
六所権現というのは、そんな“目に見えないつながり”を形にしようとした、昔の人たちの工夫だったのかもしれません。
火と水、鬼と神、祓いと再生。
天念寺と無動寺のあいだに流れているものを、これからも探していきたいと思います。
参考
- 宮地直一『神社の本義と六所権現』などの研究
- 『神仏習合事典』(吉川弘文館)