神社を巡る中で、「どうして逆向きなのだろう」と素朴な疑問を持ち、色々調べるようになりました。
こちらの記事「【社紋の謎を追う】右三つ巴紋と左三つ巴紋、その意味の違いに迫る」では、国東半島の伊美崎社で見つけた「右三つ巴紋」から、思わぬ歴史の繋がりが見えてきたことをお話ししました。
今回、さらに深掘りしたいのは、その「右三つ巴紋」と逆向きの巴紋を持つ、宇佐神宮の御祭神の謎です。
豊前エリアの歴史好きの方ならご存じかもしれませんが、宇佐神宮には、一般に知られている御祭神とは異なる、「本来の御祭神は別の神ではないか?」という興味深い説があるのです。
宇佐神宮の御祭神、そして「比売大神」の謎

宇佐神宮の公式ホームページによれば、現在の御祭神は以下の三柱です。
- 一之御殿:八幡大神(はちまんおおかみ) (応神天皇を指すとされる)
- 二之御殿:比売大神(ひめおおかみ)
- 三之御殿:神功皇后(じんぐうこうごう) (応神天皇の母)
特に注目したいのは、二之御殿に祀られている比売大神です。
宇佐神宮の公式ホームページには「宗像三女神(むなかたさんじょしん)であることが伝えられています」とありますが、同時に「八幡様があらわれる以前の古い神様、地主神であるとされています」とも書かれています。
つまり、八幡神(応神天皇)が祀られる以前から、この宇佐の地に存在していた「古い神様」が比売大神だということです。
ではなぜ「宗像三女神」と書かないのか?
その「古い神様」とは、一体誰だったのでしょうか?
比売大神は宗像三女神ではない? 瀬織津姫、そして卑弥呼説
この「比売大神」について、宗像三女神ではなく、別の神ではないかという考察をしている論文があります。静岡理工科大学の矢田浩名誉教授による論文がその一つです。
矢田名誉教授は、以下のように推測しています。
湍津姫(タギツヒメ)は、瀬織津姫(セオリツヒメ)が『日本書紀』成立以降、一部改名したものと推定される。セオリツは、宇佐神宮が当初から祭っていた女神比咩神とおそらく同一神で、現在ヒメと読まれている比咩はもとその字音通りヒミと発音されていたと思われ、弥生の女王卑弥呼への信仰に基づくと推測される。
(静岡理工科大学 名誉教授 矢田 浩氏「宗像・沖ノ島と神から見える日本の古代―宗像神信仰の研究(5)―」より引用)
この論文の考察を読み解くと、
- 宇佐神宮の本来の地主神である「比咩神」は、瀬織津姫と同一神である可能性。
- さらにその瀬織津姫は、弥生時代の女王・卑弥呼(ひみこ)への信仰に基づくと推測される、という大胆な仮説が提示されています。
もちろん、「卑弥呼説」については確定されたものではなく、様々な議論があることを付け加えておきます。
しかし、もし宇佐神宮の真の御祭神が「瀬織津姫=卑弥呼」であれば、瀬織津姫が天照大神の荒魂であることは納得です。
教科書で日本の古代史を学んだ時の「卑弥呼」のイメージと、大人になってから知った「天照大神」のイメージが一致するからです。
「八幡神」は新しい神だった?
一方で、宇佐神宮の「八幡神」についても、興味深い説が存在します。
宇佐八幡宮の「八幡神」は、元々この地域に勢力を持っていた宇佐國造(うさのくにのみやつこ)氏が崇拝していた神ではなく、渡来人の辛島氏の辛国神(からくにのかみ)と、大和政権を象徴する応神天皇の神霊が、僧法蓮(ほうれん)によって融合され、新しく誕生した神であるという説です。
つまり、八幡神は、この宇佐の地で古くから信仰されてきた地主神の上に、後から迎え入れられた神である、という見方もできるわけです。
この「八幡神」の成立については、さらに詳しく考察した別記事「宇佐八幡はなぜ天皇家の祖廟かより宇佐八幡の形成と信仰の歴史まとめ」もあります。
「消された女神」瀬織津姫と、史書の謎
先ほどの論文で触れられた「瀬織津姫」という神様の名前、ご存じない方もいらっしゃるかもしれませんね。
瀬織津姫は、神道の祭祀で唱えられる「大祓詞(おおはらえのことば)」に登場する神であり、天照大神(あまてらすおおかみ)の荒魂(あらみたま)として伊勢神宮の別宮にも祀られています。
天照大神は皇室の始祖神として伊勢神宮に祀られ、『日本書紀』や『古事記』といった日本の公的な歴史書にもその名が記されています。
その天照大神の「荒魂」、つまり神の魂が持つ荒ぶる側面が瀬織津姫だというのです。
神道にとっても、皇室にとっても重要な神様と言えるはずですが、なぜか『古事記』や『日本書紀』には、天照大神の荒魂とされる「瀬織津姫」についてはほとんど記されていないとされます。
(天照大神や宗像三女神は両書に記されています。)
このことから、瀬織津姫は「存在を隠された」「消された」ともいわれる女神という側面を持っています。
前述の論文では、瀬織津姫が卑弥呼である可能性が示唆されているわけですから、もしそれが事実だとすれば、日本の古代史における大きな空白を埋めるものになるかもしれません。
神社に隠された「祖先」の記憶
そもそも、神社の御祭神の存在について深く考えたことがある人は、歴史愛好家以外では少ないかもしれません。
日本最古の歴史書とされる『日本書紀』や『古事記』は、社会の授業でその名前を覚えている方もいらっしゃるでしょう。
特に『古事記』に書かれた日本の神話は、神々が国土を産んだり、生まれた子の首を切り落としたり、遺体から他の神々が生まれたりと、現代の感覚からするとかなり荒唐無稽な内容に思えるかもしれません。
しかし、このような「無茶苦茶」とも思える内容には、ある説があります。
それは、歴史書の制作を依頼した側(藤原不比等など、当時の最高権力者とされる人物)にとって都合の悪い事実をを隠そうとしたり、事実を曲げようとした。
それに抗う書き手との攻防戦の結果、というものです。
書き手は、できる限り本当の歴史を残そうとしたため、内容は混沌としていながらも、ゼロベースではなく、何らかの事実を反映している、という考え方です。
もちろんこのような複雑なストーリーの神話を、持統や『書紀』撰上時の元正天皇が直接発案したはずはない。(中略)その実力者とは、当時の最高権力者右大臣藤原不比等と考えられる。不比等は、『書紀』編纂の最終段階において、人臣の中では編纂者の筆頭であった
(静岡理工科大学 名誉教授 矢田 浩氏「宗像・沖ノ島と神から見える日本の古代―宗像神信仰の研究(5)―」より引用)
このように、『日本書紀』や『古事記』の内容が全て事実とは限らないという前提で、大元出版の書籍「古事記の編集室: 安万侶と人麿たち」などを読むと、古代の権力争いや、歴史がどのように「作られた」のか、その背景に頷ける部分が多いと感じます。
また、大元出版の別の書籍「出雲王国とヤマト政権」では、大国主(おおくにぬし)、少名彦命(すくなひこなのみこと)、宗像三女神などの神々が、実は実際に存在した人物であったという伝承も伝えられています。
もし、もともとはご先祖様である人間を「神」として祀るようになっていったのであれば(それ以前は自然や古墳を信仰対象としていた)、同じ御祭神の神社が全国に広がっていたのも納得ができるものです。
同じご先祖様を持つ一族が日本各地に広がっていけば、同じご先祖様を祀る神社も増えるというわけです。
「祟り」を恐れた故の神格化?
矢田浩名誉教授は、論文の中で次のように述べています。
文献と考古学を埋めるものとして、神と神社に注目することが重要ではないか。(中略)日本の多くの神々が、前史時代に起源を持つ。(中略)人々は原則として一度祭った神を捨て去ることはしなかった。神のたたりを恐れたためであろう。このため、その神を祭る神社がなくなっても、一度祭られた神の名は、多くの場合他の神社に合祀されるなどして残っている。筆者の実感としては、その遺存率は考古遺物より歴史史料より遥かに高いと思われる。
(静岡理工科大学 名誉教授 矢田 浩氏「宗像神を祭る神社の全国分布とその解析―宗像神信仰の研究(1)―」より引用)
論文でも伝えられている「祟り」。
たとえば学問の神様として有名な菅原道真(すがわらのみちざね)公は、明確に「祟り」を恐れて神として祀られた「人」でした。
道真公を恐れた政敵に陥れられ太宰府に流された後、その怨霊が祟りを起こすと恐れられ、人々はその怒りを鎮めるために神として祀ったとされています。
大元出版の書籍「出雲王国とヤマト政権」では、歴史の重要人物である「火明(ホアカリ)=饒速日(ニギハヤヒ)=スサノオ」が、秦の始皇帝のための不老不死の妙薬を探しに3,000人の童男童女と多くの技術者を従えて日本にやってきた徐福(じょふく)であった、という伝承が伝えられています。
その徐福が最初に到着したのは中国地方・日本海側の出雲であり、受け入れてくれた出雲王国の王と副王、大国主と事代主(ことしろぬし)は徐福一派の謀略によって亡き者にされたと書かれています。
(書籍では徐福の二人目の妻は市杵島姫で、徐福と市杵島姫は物部氏の祖になったと述べています。)
実際に大国主や事代主を謀殺したのは、徐福ではなくその部下であったとも伝えられていますが、もしそうだとすれば、その「祟り」を恐れ、大国主と事代主を祀る神社が多く存在する理由の一つにもなりうるのかもしれません。
「豊の国」と卑弥呼、そして瀬織津姫
大元出版の書籍「親魏倭王の都」では、卑弥呼とはかつて九州東部に勢力を誇った「豊の国」(豊前・豊後に分かれる前の国)の女王であった、という見方が語られています。
確かに「豊の国」の名残は現在も各地に残り、「豊」が付く御祭神や神社、地名が存在しています。
- 福岡県行橋市にある豊日別宮(とよひわけぐう)(草場神社)
- 【中津市】かつての竜王浜、旧社号「豊日別宮」、現「闇無浜神社」(かつ御祭神のうち一柱が「瀬織津姫」)
- 宇佐市の古墳がある神社「乙咩神社」はかつて「乙比咩社(おとひめしゃ)」と呼ばれていたようです。 → 【大分県宇佐市】かつては「乙比咩社」と呼ばれた古墳がある乙咩神社へ
そして、静岡理工科大学の矢田浩名誉教授が、「瀬織津姫(=卑弥呼)」が祀られる有名な神社として挙げるのは、やはり伊勢神宮の別宮です。
瀬織津姫は、伊勢神宮の主祭神「天照大神」の荒魂として祀られています。
瀬織津姫は、罪や穢(けがれ)を川の水で清める神と言われており、水の神、滝の神、龍神、白龍または黒龍、弁財天と習合(しゅうごう)しているなどの情報もあります。
宗像神、特にイチキシマは近世に弁才天(弁財天・弁天)と習合した神社が多いが、他神と習合した場合もあり、一般にそれ以前から祭られていた神(主に女神)に習合したものと考えられる。(中略)明治初頭に習合が外されたとき、宗像神の場合多くが三女神を祭る神社となったようである。
(静岡理工科大学 名誉教授 矢田 浩氏「宗像・沖ノ島と神から見える日本の古代―宗像神信仰の研究(5)―」より引用)
謎が多い「瀬織津姫」ですが、「瀬織津姫」ではない別の御祭神名で祀られている神社も、私が住む豊前市の身近にありました。
例えば豊後高田市黒土の無動寺鎮守「身濯神社(みそぎじんじゃ)」に祀られているのは、黄泉の穢れから生まれた日本神話の災厄の神「八十枉津日神(やそまがつひのかみ)」です。
瀬織津姫が穢れを祓う神、八十枉津日神は穢から生まれた神と対局にあるようですが、菊池展明氏の著書『円空と瀬織津姫』には、これらが同じ女神を指していると書かれています。
また、同書によれば、瀬織津姫にしても、他の御祭神にしても、特定の期間に神社の名前が変えられたり、御祭神が変えられていると詳細に伝えられています。
それが、藤原不比等が編纂に関わった『日本書紀』や『古事記』が登場する奈良時代初期と、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が行われた明治維新の時期だったという情報があります。
明治維新で、それまで神仏習合が許されてきた日本の信仰は一変したといいます。
神道と仏教は分けられ、多くの寺が神道へ特化することを求められました。
その理由は、仏教がもともと日本のものではないこと、そして武士から天皇へと王権が復古される動きがあったためです。
瀬織津姫を含め御祭神や神社名が変えられたということは、奈良時代にもその辺りが関わっている可能性はあるのではないかと考えてしまいます。
歴史の空白を埋める「神と神社」の視点
「卑弥呼が誰だったのか」「どこが邪馬台国だったのか」といった壮大なテーマは、たとえ歴史の専門家であっても意見が分かれたり、文献がない時代のことゆえ立証しようがないと、はっきりと断定できる人はいないそうです。(卑弥呼については、役職名だったため、各地にいても不思議ではないという説もあります。)
だからこそ、今回この記事で紹介した論文の著者・矢田浩名誉教授は、史書だけでなく、実際に残っている神社(御祭神)などから統計学やデータによる関連性を浮かび上がらせ、大胆とも言われる推測を入れながら、今まで分かりようがなかった歴史を証明しようとされているのではないでしょうか。
論文の内容に異議を唱える方もいらっしゃるでしょうが、真偽は分からないにしても、現地に足を運び、専門家もまだ多くは訪れていないような史跡を見て、調べて、色々と想像する余地があるというのは、私のような個人の歴史愛好家にとっては非常に面白いテーマだと感じます。
前述の論文で「日本の古代神信仰は長い時の間に多くの変遷を経てきたが、人々は原則として一度祭った神を捨て去ることはしなかった。神のたたりを恐れたためである」という記述のとおり、御祭神の名前を書き換えても、存在そのものを消し去ることはなかったのかもしれません。
矢田名誉教授は、文献の欠如している「空白の4世紀」と呼ばれる時期が謎であるものの、「文献と考古学の隙間を埋めるものとして、神と神社に注目することが重要ではないか」と訴えていました。
『古事記』にも『日本書紀』にも書かれていないのに、その時代からあった史跡もこのエリアには結構残っています。福岡県行橋市の神籠石(こうごいし)や、福岡県の東の端っこ、上毛町(こうげまち)の唐原城(とうばるじょう)がまさにそれです。
これまで読んできた本、論文、そして実際に目で見た史跡から、「『古事記・日本書紀』が全てというわけではなさそうだ」と、あれこれ謎解きのように想像して楽しんでいるのかもしれません。
追記:貴船神社の御祭神について
その後、国東半島で出会った本から、調べていたキーワードがつながりました。
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